ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

六根の意門とは何か?(後編)

六根の意門とは何か?(中編) から続きます)

そういうことで、かなりややこしい世界なんです。一般現代人に向けてしゃべれることじゃないんです。わたしが結局何を言いたいかと言うと、わたしたちのこころの中で、過去に起きたデータを勝手にねつ造して、それを掻き回しているけど、ごみ以外なんでもないんです。貪瞋痴が生まれるだけなんです。

 

しかし意門ていうのは、そんなに悪者でもない。意門は自由になったら、過去現在、アビダンマでは未来と言うんだけど、ちょっとそれが怪しいんですけどね、過去現在のデータをそのまま知ることができます。ねつ造はねつ造であると。この場合は現象にしなくちゃあかんやとかね。例えば音と言う物質があります。それはすべての生命に同じく聞こえません。みんな耳を通すんだからね。耳という物体の能力に合わせます。そこはフィルターなんです。

 

人間の耳と言うフィルターを通した波長だけ聞こえる。犬の耳のフィルターを通した波長は犬の耳にだけ聞こえる。だから、音の発生源は同じですけど、犬が聞く音と人間が聞く音は違います。聴覚が違うんです。

 

それは変えられない。犬にわれわれが聞こえるように聞いてくださいと頼んでも無理。たとえば犬笛がありますね。犬がもし、しゃべることができて、人間に「もう少上手に犬笛を吹いてください」と頼んでも無理。人間にはできません。だって聞こえませんから、犬笛が。

 

そういうわけで、そこに結論が出てこない。生命の世界で、肉体を持っている場合は。そこで心が離れちゃうと、生命は音として認識する波長は全部取ります。これぐらいのエネルギーの変化は、各生命が音として、聴覚として認識するんだよと。全部知ることはできますよ。だからと言って、ただのエネルギーの変化しか認識しませんからね、こころは。それで、これは聴覚だから、どんな生命の聴覚にするのかということで、いらない音をカットして、残りの音で現象を作っちゃうんですね。

 

仏教経典にもありますね、天耳(てんじ)で神々のしゃべっている音も聞こえますよ。これが別に奇跡でもなんでもなくて、ちゃんとした能力のことなんです。それぞれのチャンネルを合わせるだけ。すべての音の範囲が入ります、こころに。そこでチャンネルを合わせて、合わせたところで聞こえます。

 

そういうふうに、肉体からこころがちょっと離れる能力があったら、いろんなことが意門にはできます。だから仏教では意門は大事にします。ちゃんと能力を育ててあげれば、すごいことができるんです。こころを磨きなさいというのは、そういうわけなんです。眼耳鼻舌身を育てなさいと言っていません。眼耳鼻舌身の能力を上げろとは言っていないんです。

 

ねつ造する機能を学びなさというとは、ねつ造する機能を学ぶと、自分にねつ造を管理できる能力が同時に付いてくるんです。花は美しいとみることも、別の角度で見ることもできます。意門ていうのはそんなものです。意門では、あり得もしないものを作って認識することもできます。怪獣とか、モンスターとか、エイリアンとか、意門では作れます。

 

神話物語とか、ありもしないものでしょう。キリがなく作れます。現代人が様々なモンスターとか怪獣とか、子供のためにドラえもんとかしまじろうとか、ありもしないものを作っちゃいますけど、昔は神を作ったりお化けを作ったりいろんなものを作った。いろいろやって来たんですね。そこで、意門が失敗するんですね。自分が作ったものは実在するんだと。それから、それに対して感情が出てくる。恐怖感・怯え・執着・競争、また感情が湧きだしてくるんです。

 

子供がモンスターとか○○マンとかいろんなおもちゃを持って遊んだりするでしょう。おもちゃ屋さんに行けば、あるわあるわ……。あれって何やと、こちらはジジイだからさっぱりわからないんだけど。たまにいろいろ用事があると、新宿の淀橋のおもちゃ館とか行く羽目になるときもあります。土曜日なんか、本当に面白いんですよ。そういうおもちゃが好きなのはほとんど男の子だからね。お父さんと息子さんたちがきて、別世界ですね。子供達が生き生きして、そこではお父さんを導くんです。お父さんを説教するんです。授業をやるんです。「これはこうで、こうやるもので……」と。

 

これは関係ない第三者が見ていると、面白いっちゃ面白いですよ。楽しいし。お母さんと一緒に行ったら全然面白くないんです。ときどきお母さんたちも連れてきますけど、お母さんはつまらなそうに、子供のことだけが心配でじーっと待っている。「早く一つ選んで」と。子供が説教をはじめても、「あ、そう」と興味ないんですね。これ、お父さんと一緒だったら、全く別世界で面白いんですけど。

 

そういうときも、やっぱり子供達が本当にいるかのごとく思っているんですよ、頭で作った幻覚が。それが、大人になってからも直らなくなっちゃって、本当にアダムとイヴから人間があらわれたと、神が人間を作ったと思っている。いまだに神様は上にいるんです。どこですかね、上って。地球の両側にいる人間が、「神様お願いします」と祈っても、神様はどこにいるんですかね。

 

かなりややこしいんですよ、意門は。自分が作った化けもんに自分が怯えてどうするんですか。唯識(ゆいしき)、という大乗仏教の一般論があります。大乗仏教とは、もともと哲学的でしたし、徹底的にヒンドゥー教主義という二つの流れがあって、最初は哲学の世界で、中観派唯識派の二つなんですね。それから、力がなくなって絶えてしまったんです。それで信仰だけが残った。祈祷・儀式とか。そういうだらしないところだけが残って、哲学的なところが死んじゃったんです。

 

唯識の言っているところは、すべての現象の世界は、こころが作る幻覚だと。建物もわたしもあなたもすべて、わたしのこころが勝手に作る幻覚だと、それを本物だと思って、愛着や怯えやら恐怖感やら、を作る。たとえば、「あの人はかわいい」と思えば、こころが幻覚を作って、それに愛していると言うんですね。そういうふうに、こころの働きを説明するんです。それは、意門に限ってはそういう働きが確かにあります。

 

唯識論は正しくない、やりすぎだからね。そのやりすぎのところは潰れます。ですから、そこはやりすぎですけど、一部言っているところはその通りなんです。

 

意門と言うのはそういうものなんですね。仏教の世界では意門については、結構ややこしいんです。単純にシンプルに理解できるものではありません。幻覚も作れるし、ありのままの事実を知ることもできるし。特に過去を知るということは、意門でしか知り得ません。わたしたちはが知っている過去は過去かなと、問題ですけどね。わたしたちが過去だと思って記録している概念を引き起こすだけ。それが過去でしょうか、とよくわからない。

しかし体から離れてみると、過去を見ることはできます。そういうことで結構仕事はします。

(おわり)

 

関西定例冥想会 2012.05.26

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1732337.htmlより書きました。

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