質問
「命にかかわる病気になった時に、どこまでが適切な治療でどこからがやりすぎになるのか教えていただきたいです。
わたしは臓器移植に反対ですが、あくまでわたしの意見ですので、何が正しいのか教えてください」
回答(スマナサーラ長老)
それは常識的に考えればいいと思いますよ。世の中のことだから、一人の意見ですべて通るわけじゃないしね。だからといって、みんながまとまったら正しい意見と言うわけでもないしね。
命にかかわることは、決して自分の意見で行動しないほうがいいんですね。自分の意見を出してみて、人の意見も併せて、多数決で判断するということです。
実はね、命に対して、われわれはあれやこれやと言う権利が元々ないんです。強いて言えば自分の命に対しては、なんとかすることはできますけどね。それでも仏教からすると、自分の命を向上させるために努力することはいいんですけど、自分の命だからと(人に関係ないと)堕落させることは、決して理性的ではないんですね。
自分の命を向上させる権利と言うのは、それは頑張ってもいいんです。他人の命に対しては何の権利もありません。自分の命と言っても、無知な人が考えることで、仏教では命と言うのは別な次元ですからね。自分のものでも他人のものでもないし、ただの無常の流れですからね。言葉上「命」と言っているだけの話ですよ。
大乗仏教では「空(くう)」と言う言葉を使っている。空の世界ですよ。そうなってくると、どうにも成り立たなくなってきちゃうでしょう。それが正しい言葉です、結局は。
わたしたちは、幻覚の中で生きているときは、わたしの命・人の命と言う言葉が成り立ちます。それに対照的な単語です。
そういうことですから、ものの流れは自然法則で流れていくんだから、わたしたちは、どうするということもないです。余計なことをすることもないし、あえて命を助けてあげようと思っても、それもできることでもないし。命を奪うこともできますが、それは断言的に悪行為です。権利のないことをやっているんだから、おそろしい罪になってしまう。
助けることは反対に善行為ですけど、どこまで助けられるかはわからない。助けるというのは補助することですね。ちょっとサポートすることです。できるのは。
たとえば、人にご飯を上げるということは、ほんのわずかなサポートで、もらった人がそれを食べて消化しなくてはあかんですね。それはわたしたちにどうすることもできない。その人にその力がなかったら、それは仕方がありません。
われわれは人の命を助けてあげると言っても、ほんのわずかなサポートをしているだけなんですね。その援助を受ける力がその本人になければどうしようもないんです。そういうことなんですね。
わたしは、臓器移植に反対ではないんですね。自分の臓器が人の命をサポートするならばそれはとてもいいことでね。それなりに道徳がありますから。将来性がある人々にとっては、何かできることがあるかもしれないから、臓器移植で生かしてあげればいいんじゃないかと。子供が病気なっていれば、必死で何とかしようと思います。
ときどき自分の国の新聞でも、60歳になって腎臓が壊れちゃって、誰か提供者がいないかと載りますけど、勝手に……と言いたくなっちゃうんです。子供の場合はそう思わないんですね。
そういうことで、断言的なことは言えないんですよ。客観的に、臓器移植が悪いわけではない。それを悪いと言ったら、献血もできなくなっちゃうでしょう。献血も一種の臓器移植の一番軽いバージョンでしょうね。命が助かりますから、根本的にいいことです。
迷信だらけの人々はそれに反対しますね。たとえばイスラム教では、臓器移植に反対していますが、自分が病気になると誰かの臓器を奪ってきちゃう。自分たちは絶対にあげない。魂の一部がなくなるんだから、と。
ブッダは科学的な世界だから、西洋科学より精密ですが、部品交換は別にどうったことはないんですね。今もすでに部品交換をしています。部品交換大反対というのはあほな考えですよ。部品交換をしないと、一日も命は成り立ちませんから。
たまたま人によって、部品の一部ではなくてかなり広範囲にシステムを交換しなくちゃいけなくなってしまうんですね。それだけの話ですね。
だから、命にかかわる病気というのは、その人が自分の力で生きなくてはいけないし、わたしたちにできることはちょっとサポートすることで、サポートできるのにしないというのは、悪行為なんですね。
それだけのことで、冷静にやればいい。「とにかく生き返ってほしい」「何とかして生かそう」と凶暴にいかなくても中立的、中道で、サポートできるところはサポートする。それでも個人個人が自分の能力で生きていかなければならないんですね。
関西定例冥想会 2015.12.20
https://www.youtube.com/watch?v=wweFviyFqdk~12:00より聞いて書きました。