ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

心とは脳じゃない、命のことです

質問

「以前、長老がおっしゃったポイントをもう一度教えていただきたいと思います」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

さらに無常を経験しながら、その世界で生きてみてください。一時的なことかどうか、わたしにはわからないでしょう? 一時的には誰だって、(冥想中に)ビックリすることはありますよ。そうでなくて、脳の構造そのものが変わらなくてはあかんです。だから、それからしっかり頑張ってくださいということなんです。

 

質問者「(質問者のケースにおいて)冥想するときに、『死体』になりなさいというのは? 」

 

それは、体を止めてください、ということです。

ちょっと脳科学的に言うことで、原始脳、つまり脳幹の上のほうで、最初の自我というものがあらわれてくるんだと言っています。それは思考がないところなんですね。思考がなくて感情が生まれるんですね。

 

わたしがいつも言っていることですよ。脳科学でハチャメチャ研究して言っていることはね。そこで、最初に体を動かす気持ちを作るんですね。それから、大脳信号で体をしたりするんですね。

 

仏教の覚りというのは、根本的に自我を作っているところが間違っているんだと直すんだから、脳科学的に言えば、あり得ない、なんだこれは成り立たない、という話なんですね。「脳が幻覚を作って生きている」というのが脳科学者の話なんですね。こころも、ヨーロッパ人がmind、consciousというところは、やっぱり脳のどこかにある場所じゃないんだと。ただ全体的に、あるかのごとく見えるだけだと。それから、mind、consciousが自分を支配するんだと。そこを調べてみると、もともと脳幹でselfというものの、一番基本的なところが生まれるんだと。意識はないんですね。それは遺伝子で本能だと。

 

その説明は正しいんだけど、仏教では解を、答えを出している。死体にするというのはすごく基本的なことです。簡単にできるようになります。死体を動かさないようにしていると、「やっぱり動きたい」という気持ちが見えてくるんですよ。痛くなって動きたい場合は、大脳なんですよ。痛くなくても、動きたくないんだけど、「これは動いているんじゃないかな」というところを意識してほしいんですね。そこで、脳幹のところまで、自分の意識がいっちゃうんですね。無意識と言っている、原始脳の働きには誰にもアクセスできませんからね。しかしわたしたちは、それにアクセスする手段を使っているんです。

 

そのつもりがないんだけど、いろんなことが起こるでしょう。それにも気づくんです。たとえば、感情っていうのは何で生まれるのか? これは原始脳で出るんですね。大脳の感情はわかりますよ。「あんたがそんなこと言うから怒ったよ」というのは大脳です。そうすると、「まあいいや、怒らないことにしよう」と。大脳の感情を消したりすることは簡単です。

 

たとえば、異性を見たら、「気に入った」となっても、「わたしはあなたのことは嫌い」と言われたら、「そうか、諦めた」と、その場合、その愛情は大脳で生まれたんです。原始脳で生まれたらそう上手くはいかないんですね。管理できないんです。怒りも欲も性欲もなんでもかんでも、原始脳で生まれたら、どうしようもないんです。

 

たとえば、原始脳の、獣の脳の気持ちだったら、「あなたは嫌いだ」と言われたら、「嫌い、嫌いも、好きのうち」と自分で解釈するんです。

 

感情が最初は原始脳で生まれる。それは遺伝的でどうしようもない。それから大脳に行って、その通りに生きようとする。それが正しくない、と仏教は言うんですね。

 

細胞は一個一個、生命力を持っているんだと脳科学者は言うんですね。だから、脳がなくても生命は生きていられるんだと。なのになんでこんな変なことに。脳科学者からしても、「ええ?」と考える。命で見れば、脳がいらんと。わたしはそれを前から言っていたでしょう。唯脳論とか間違いだと。最近になってきたら、わたしが言う意見が正しいことになっている。わたしの意見ではなくて仏教から言っているだけですけど。

 

単細胞は生きているんですね。脳はないのに、判断しているんです。環境はわかっている、これは悪い環境だとか。単細胞たちが互いに連絡して、エサがあったらそれをとったりするんだけど、環境が悪いなと思ったら、スッと仲間を呼ぶんだと。大量に細胞たちがそちらに一斉に行く。それって人間でもよくやることなんですね。でも単細胞には脳がない。考える能力はないんです。でも人間と同じ行動をしている。

 

命ってそんなものなんですね。だから、われわれがこころと言うのは脳じゃない。命なんですね。ですから、単細胞も命ですから、仏教的にはこころがあるんです。仏教でこころと言うのは、何かあほなことを考えることじゃないんです。ただ、自分の存在を知る、周りの存在を知る程度なんです。単細胞は知っているんです。脳はいらないんです。

 

遺伝子と言っても、なんでこの四種類の塩基にそんなに生き続けたいのか。そういうのはあり得ないでしょう。四種類の塩基でつながっているだけで。われわれがそれをガラス瓶にいれたら、その四種類の塩基が「このままではよくない、何とかしなくちゃ」とは思わないでしょう?

 

四種類の塩基を別々にして瓶に入れたら何かやってくれる? 何もしないんです。

 

なんか、生き続けたいという働きがあるんだから、だからこれは新しい遺伝子を作らなくちゃいけないんです。生き続けるために。生き続けたい気持ちが先にあって、この四種類の塩基がすぐに壊れるんだから、「これは困っちゃう」と。困る必要はないでしょう。物は壊れるんだから。でも新しく作りましょうと。新しく作るときは、外から別の物質を取り入れる。「おまえじゃないでしょう」と言いたくなっちゃいますけど。

 

たとえば、細胞が分裂して新しい細胞があらわれるでしょう。自分という子孫を作ると。でも自分じゃないでしょう。ドーキンスさんもそこらへんを、「The selfish gene 」*1  という本の中で、遺伝子が生き延びたいだけだと。われわれを乗り物にしているだけだと。子供を作るわ社会を作るわ、頑張るわ、というのは遺伝子にやられているだけだと。馬鹿にされているだけだと。遺伝子がずっと永遠に続くんだよと。

 

違うでしょう、とわたしは言いたい。古い遺伝子が壊れれば新しい遺伝子があらわれるだけです。わたしたちが子供を作っても、わたしの遺伝子じゃないでしょう。まるっきり新たなセットでしょう。なのに、なんで誤解して、わたしの子供だ、わたしの遺伝子だと、いい気分になっちゃうんですね。いい気分になるのは存在欲なんですね。

仏教は、遺伝子じゃなくて、そちらに、こころの科学に入ってみたんです。

 

現代知識の脳科学でも、勉強して、いろいろな知識を作って、脳にはモジュールとかはないんですが、お互いに連絡しあって何とかあらわれた。そこから勉強しなくちゃあかんです。そこからどんどん、われわれは細胞に行くんです。

 

だから、ブッダの冥想をあまり説明しないのは、説明してもわからないんです。だから、単純に言っているのは「体を止めてみる」。素直にやればわかるものなんですね。すぐに自我が割り込んでくる。ちょっと冥想がうまく言ったとたん、自我が割り込んでくる。

 

ちょっと楽になった時点で自我が割り込んじゃって、新たな悩みが起きたんだから、これは何とかならないのか。悩まないで調子に乗って生きていきたいと思っているんですね。それはダメなんです。遺伝子の本能があるかぎり、悩みがあるんですね。そこまで改良しない限り、悩みはあるものです。

 

そういうことで、体を止めるということは、根本的に命は何だというところにアクセスする。命は動くことですね。物質としては。そこで、止めるということで経験してみるんです。

 

 

関西定例冥想会 2015.12.20

https://www.youtube.com/watch?v=wweFviyFqdk20:00~35:00より聞いて書きました。

f:id:thierrybuddhist:20160106110845j:plain 

目次5‐覚り/脳と仏教/ありのままに見る(正見) - 瞑想してみる

♫ 説法めも【目次】を見る

*1: 

The Selfish Gene: 30th Anniversary edition

The Selfish Gene: 30th Anniversary edition

 

日本語版: 

利己的な遺伝子 <増補新装版>利己的な遺伝子 <増補新装版>