ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

長生きしたい(3)

長生きしたい(2)より続きます)

仏典にあったエピソードを出して、寿命が短かった子供の寿命が長くなったように、わたしたちにも何かそういう方法がないのか、と。これはやっぱり自分の仲間に対する執着以外なんでもないんですね。いかに執着するべきか、という質問に仏教では答えがないんです。

 

仏教の答えは、執着を捨てなさい、なんです。それですべて解決します。わが子に対してでも、執着を捨てたほうが、その生命体が幸せになるんです。執着することでわれわれは、他の生命体をいじめている。権利を奪っている。両親は、子供の生きる権利を奪っているんです。仏教の立場でないと、それを理解できない。そんなことはあり得ない、嘘だ、といいはったりして、やっていることは子供の権利禁止なんですね。

 

子どもを放っておいたら心配だと。いいえ、心配ではないんです。それはあなたの愚かな遺伝子の気持ちです。

 

わたしの国へ帰ったら、子供たちが遊びに来ますが、「ふざけるな、遊ぶな、騒ぐな」と何一つ言いません。「そうじゃないでしょ、こうしなさい」とか「お前何回言ったらわかるのか」という単語が一切ないんです。「ダメ」という単語もない。しかし、親もビックリする。この子たちはなんでこんなにおとなしくいるのか。

 

ときどき親が心配して様子を見に来る。来てみたら、物の見事に、子供たちが落ち着いているんですね。わたしはわたしのことをやっている。全然迷惑でも何でもないんです。そこは、秘密を聞かれるんだけどね、親に教えられないんです、それは。単に愛着がないんです。でも慈しみがあるんです。そこは子供たちが感じて、「この人はわたしたちの幸福を願っているんだ」とだけ知っているんです。

 

生きる権利を与えれば、各生命が、この権利の中でどう生きるべきかと自動的に理解するんです。面白いことは、親にそれができないんですね。どうしても本能が割り込むんですね。他人として見ることは全くできないんです。相当修行しないと。

 

いかに執着するべきか、執着する方法を教えてください、と言っても、執着がすべてダメにするんだという話ですから、執着を減らせば減らすほど慈しみでもあるし、物事はうまくいくんですね。だから仏教で業の良いプログラムを作ってくださいというのは、執着を捨てることなんです。

 

執着を減らして、すべての生命のために生きてみることが、執着をすてることです。だから、善行為がすべて執着を捨てる話です。それを理解したほうがいいんじゃないかなと思いますけど。

 

たとえば、わたしは子供の病気を治す目的で、月一回ボランティアをやっていますよと。それって執着でしょう? やっぱり献身的になって執着がない方に行った方が、見事な結果にはなります。

 

家族に災難がないように善行為をしたんですけど、結局は、そんなのわたしに管理できないから仕方がないや、と善行為して無執着の世界で生きてみるところで、うまくいくんです。そうすると、うちの子はそこまでよくなると思っていなかったというところまで成長するんです。

 

わたしたちは人のまねをするでしょう? 誰だって真似をして成長しますから。無執着行為は、真似をしないことは不可能なんです。親も先生も執着でやっていることだから、真似してみようかなと、いやいやでも頑張っちゃうんです。教育とは厳しいものなんです。無執着ですごいことをやる人の話を聞くと、いきなり圧倒されちゃって、なんていいことでしょうかと。そう思うと本人のこころがもう変わっているんです。

 

他人の幸福のためにやるべきことは、無執着でいることで、無執着を育てるために、必要な行為をすること。善行為は無執着な行為なんです。しかし、善行為と言ったら、執着が入ってくるんですね。言葉の順番がややこしいんですよ。いっぱい善行為をして幸福になってください、というと、順番が執着的になってしまう。

 

そこはウケますから、順番がそうなってしまうんです。だってみんな本能で生きていますから。本能を乗り越えていませんから。

仏教でも、善行為をして幸福になってくださいと、その順番で語っていますけど、わたしはちょっと順番を変えているんですね。無執着を訓練しなさいと。

無執着を訓練することは、自分の遺伝子の奴隷にならないようにすることなんですね。

 

では無執着のために何をすればいいのかというと、これこれこういうことをやってください、というのは善行為なんです、結局は。それで幸福になりたい、ということじゃないんです。じゃあ、幸福になれない? なれないわけはないんです。執着でやるよりは、はるかに、結果が大きいんです。結果を目指すと執着になるんですよ。

 

そこはすごく難しいんですね。遺伝子とのやり取りだから、結構難しいんですから、わかりやすい言葉は、執着を捨てましょうよと。執着を捨てられるように訓練しましょう。執着のスタディをするんですよ。

 

たとえば、子供が病気になるとすごく悲しくなっちゃうんですね。もっとひどい病気になっている人間がいくらでもいるのに。それは全然へっちゃらなんですね。簡単に治る病気なのに、その薬を買うお金がなく死んでしまう人もいるのに。百円程度あれば治る。この百円がなくて、死ぬ。それは悲しく感じません。そんな話をすると、うるさいやと。

 

ですから、自分の子が病気になるとすごく悲しくて心配で暗くなっちゃって。なんですかね、それは。それは執着でしょう。執着で狭い世界を作るんですね。遺伝子だけで生きていると、すごく狭い世界です。子孫を作って、あんた死ね、それで終わり。だから世の中は年寄りを全然大事にしない。荷物扱いする。どこかの施設にいれちゃって、荷物扱い、動物扱い。年取ったら、犬猫のほうが幸せですよ、この世界では。年取って施設に入れられたおじいさんおばあさんは、犬猫と違ってすごく残酷な扱いを受けている。

 

みんな口では言わないんだけど、早く死んでもらった方が楽になる、という気持ちで面倒を見ているんですよ。それが遺伝子だけの世界です。それってかっこいいんですかね?

 

その次元を破らなくちゃいけないんです。仏教だけです、それを言っているのは。慈悲の冥想も執着をなくす目的でやらなくちゃいけないんです。ボランティアも、自分のエゴ・執着をなくす目的でやらなくちゃいけない。人を助けるときでも、本当に助かったかどうか調べちゃうと執着になる。たとえば一万円をあげて、どういうふうにつかったの? 何を買ったの? とかね。なんでこれを買ったの? というと上げたことにならない。上げたらもう、あなたの世界。わたしには知らない。そこは無執着が必要なんですね。

 

自分が人に何かをあげたところで、物の見事に助かって、思ったよりもいい結果を出していると、楽しいことは楽しいんです。それは一般論的なんですね。でもちょっと、執着を減らすという点ではなんかちょっとどうかな、というところはありますね。あげた、終わった、さようなら、というのはマズいんじゃないかと思っちゃうんですね。当然、執着の世界でマズいところもありますから。

 

われわれは精神的に、上げた、そこでわたしの権利は消えました、というところで、切らなくちゃあかんですね。そこで、大きな人間として成長していくんです。

 

答えはそういうことで、いかに執着するかということではなく、いかに執着を捨てる訓練をするのかということに変えたほうがいいんじゃないかなと、質問をね。

 

だからといって、誰だって自分の子供の幸せを願うというのは一般的な常識でしょう。それからわれわれはスタートするんです。わが子を愛するところからスタートするんです。それから、人類を愛するところまで大型人間になる。初歩はわが子を心配するところからはじめて、それから歩んで、歩んで、大きくならなくちゃあかんですね。

 

業の話も出ましたけどね、エピソードは気をつけたほうがいい。あんまりエピソードに乗っちゃってもね。作り話もあるし。ブッダの純粋な言葉だけについた方が安心安全です。エピソードは何を教えてくれるのかというところだけで、それ以外は捨てたほうがいいと思いますよ。

 

あのエピソードは、業を変えるためには、かなりのプログラムが必要という話なんです。小さな子供の業に何か問題があって、寿命業にね。途中で業が切れるアクシデントが起きそう。それを読めるのはお釈迦様だけですからね。そこで、終わりでしょう、とわかる。

 

両親に「長生きしますように」と祝福して、その子の前では黙っている。「お釈迦様、長生きしてほしいのはわたしたちじゃないでしょう。子供でしょう。子供にも祝福してください」と。お釈迦様は「無理です」。ごまかしなく言うんですね。

 

このストーリーで、業のファンクションを教えたかっただけなんです。実際そのストーリーが起きたのかどうかわたしはわかりませんからね。実際に起きたストーリーと違って、後で加えたストーリーは微妙に、においますよ。このエピソードもちょっとにおうエピソードなんです。しかし、作った人がいたとしても、すごく立派なお坊さんたちが、慈しみにあふれた人々が使ったエピソードだから、作り話だとすることはできません。

 

個人の業が入るために、たくさんの人々が集まって、大法要をやるんですね。何日もかけて。それくらい大きな集団で一緒になってもらわないと、業が切れるところをつなげられません。だからこれは、遺伝子以前のところで直すんです。ちっちゃな子供を七日間ぶっ続けで法要にいれちゃって、その世界で生かしてあげているでしょう。子供がご飯を食べて寝て、起きたらまた法要で、というなかで、新しい人生に入れ替えるんですね。それで、プログラムが変わっちゃったんです。

 

法要が終わったところで、お釈迦様が、「じゃあ、長生きできますように」と。

 

わたしたちにしても、日本の状況がちょっと先が不安、ということがあったとしましょう。一人の人間がそれを何とかしようと思っても、なんともできんでしょう。日本の将来があまりにも心配だったら、全体的に立ち上がらなきゃあかんです。日本国家だけ立ち上がっても何の意味もないんですよ。世界は、つながっているんだからね。他の国々との関係もすごく強くして立ち上がらなきゃあかん。そうすると、日本という一国が不安ということは、みんなで一緒になって消えちゃうんです。

 

そう言う働きですから、ごまかしができません。一人の日本人が慈悲の冥想をして、「日本という国の幸福を願っているんだから、大丈夫。われわれは落ち着きましょうよ」というのは冗談ですね、あれは。業でそういう遊びはできません。業というのは宇宙法則よりもっと上にあるものなんです。

最終回・長生きしたい(4) に続きます)

 

関西定例冥想会 2015.12.20

https://www.youtube.com/watch?v=wweFviyFqdk35:00~より聞いて書きました。

 

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目次5‐覚り/脳と仏教/ありのままに見る(正見) - 瞑想してみる

【目次】説法めも

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