(戒律とはトレーニング-戒律(1)から続きます)
お釈迦様が完全に語っているものは、一つのみなんです。たとえば「殺生しない」というのをトレーニングすると、ほかの戒律もついでに守っているんです。そこはすごく便利なところです。
だからこれを儀式みたいに、信仰する宗教みたいに、なんか神経を固くして守る項目・戒めじゃないんです。トレーニングなんです。
そこで、仏教は、戒定慧(かいじょうえ)という三学であると、伝統的に大乗仏教でもわれわれでも、言っていることです。だからかなり初期からお釈迦様がおっしゃっています。
戒定慧。戒律と、禅定と、智慧。この三つもトレーニングなんです。トレーニングすることが、人間にとって素晴らしいことなんです。なにもトレーニングしなかったらサル以下なんですよ。サルだったら木に登れますから。人間はトレーニングしなかったら、水泳すらできないでしょう。文字のトレーニングもしなくてはいけないし、お箸の使い方まで。
人間だけ服を着るでしょう。小さな子供たちは、自分で服を着ようと思ったら、右と左がわからなかったりする。前と後ろはどちらでも気にしないんです。大人がそこを直してあげる。それからだんだんと、間違わないようになってくる。
そういうふうに、人間がトレーニングするんですね。信仰する宗教があってもなくても、なんてことないんです。それは自分の服にバッヂをつけるようなもの。バッヂがあってもなくても痛くも痒くもないでしょう。
もし、「わたしは文字のトレーニングはしたくない」と言って、ひらがなさえ勉強しなかったらどうでしょう? だから、必ず必要なものはトレーニングします。
戒律は「律」ではないんです。「戒」でもないんです。「戒律」なんですけど。これは漢字の使い方の間違いです。他の漢字がないからしょうがないんだけど。これはサンスクリットやパーリ語から正しく訳していないんです。本当は、「トレーニング」なんです。
パーリ語では、戒律をsīla(シーラ)といいます。シーラっていうのは、おとなしくなる、よくできた人間になる、という意味なんです。「戒律」ではないんです。行儀作法やなんでもかんでも、よくできている。できた人間。できた人間が、sīlavā(シーラワー)というんです。シーラがあるんだと。
学校の校則がありますが、子供たちはそれを破ったりするでしょう。そのことでなにか学問に支障がある? 子供達は逆に楽しいんです、校則を破っちゃうと。校則にある「あれだめ、これだめ」というのを破ることは結構楽しい。
そういうふうな、あってもなくてもどうでもいいものではないんです、シーラとは。必ず必要なものです。なくなったら、命まで危ないものです。
だから、五戒というのは、「五戒じゃない」んです。トレーニングです。
では何のトレーニングですかね?
これからちょっと難しくなりますから憶えておいてください。
(自己破壊のOS-戒律(3) に続きます)
<スマナサーラ長老・関西月例冥想会 2014.05.06
https://www.youtube.com/watch?v=q0uaJAGnjXI
35:00~より書きました。>