(定のトレーニング-戒律(9) から続きます)
三番目は、智慧なんですね。
智慧もトレーニングなんです。ありのままに見たら困ると、輪廻転生の世界でわれわれにはプログラムされて、誤解するようにと。「人間は美しい」と見なさい、と。人間と言っても、皮膚があったら歯があったり、腸があったりというセットかと思うと、あの「美しい」と言うのが消えちゃうでしょう? わざとそういうトレーニングをするんです。
田中さんでも次郎さんでもなく、「髪の毛がある、骨がある。腸があって腸の中身があって、大便があって、唾液があって」と、三十二のパートに分けてみるんです。誰だって同じことだからね。そうすると、幻覚作ることが、どんどん弱くなって、ありのままに見える。そういうトレーニングをするんです。
それで修行が完了。もうだまされません。ありのままに真理を知っている、今までやっていたすべての間違った世界が消えちゃったんです。怒り嫉妬憎しみのない、煩悩のない世界が、あらわれてくるんです。
もう落ちませんよ。たとえば上手に字が書ける人は、もう書けますからね。数学を憶えたら、難しい数学は忘れますよ、歳取ると。なぜならばあれはいらん事だから。余計なトレーニングです。しかし、必要な数学は死ぬまで憶えていますよ。忘れていません。勉強したことも大量に忘れるでしょう。でも命にかかわることは残るんです。だから、このトレーニングで得たものは消えません。
「すべて無常だから、それも消えるはず」というのはちょっと違います。話がね。すべて無常ならすべて消えますけど、この場合は「なにか」ではないんですね。何か特別なものをもらったわけじゃないんです。それをどうやって消すんですか。
たとえば、美しい字を書けるようになったら? 何かモノをもらったならば、それは取り上げられますよ。先生からもらった卒業証明書を盗まれたら、「もう習字が書けなくなりました」と言うのはあり得る? 東京の音楽大学に入って、何か賞をもらった、トロフィーももらった。そこへ強盗が入って、全部持って行かれる。それから演奏できません、と言うのは話が違うでしょう。
大学でもらった卒業証書を無くしても、演奏家として学んだものは結局は残る。これは持って行かれません。
そういうわけで、智慧を完成したら、それを誰にも持って行くことはできませんし、一切は無常なんですけど、それはこれに入りませんね。それってなんですかと聞きたくなるんだから。
無常になるために、幻想を合わせてできた一時的な幻想でなければ、無常の管轄に入りませんね。
そういうことで、無常を越えた境地には達します。そこのところは難しいんですが、皆様はただ基本的に、仏道とは、トレーニングであると。トレーニングと言うのは、人間にとって呼吸することと同じ大事なものなんです。そのトレーニングの方法を教えています。
(おわり)
一番最初 戒律(1)をもう一度読む
<スマナサーラ長老・関西月例冥想会 2014.05.06
https://www.youtube.com/watch?v=q0uaJAGnjXI
35:00~より書きました。>