(悪行為は愛着から生まれる - 新年法要2016(9)から続きます)
そう言うケースがありましたね。
旦那さんに毒を飲ませて保険金を取るとか。なんですかね。存在欲でしょ?
精密に幸福の法則はね、仏教でしか語られていないんですからね。
仏教で戒律をはじめ、すべての善行為は、自我の執着を減らす、管理する。
すべての現象を観察して、ありのままの姿を発見することで、執着がすべて消えます。
存在というそのものが、錯覚である、とわかるんです。
「わたし」ということが錯覚であると最初にわかって、それが存在そのものが錯覚であると発見した人が、最終解脱に達したことになるんです。だから、善行為の中で一番優れた善行為がヴィパッサナー実践なんです。
それをやっていない。
自分たちの固定概念を持ったまま、持ちつつ、やっているから、だから結果が見えていなんです。それはありえないんです。自分の固定概念は存在欲そのものでしょう。
わたしに、「自分に教えてちょうだい。わたしは医者です。弁護士です。偉い教授です」というのは、その時点でダメなんです。
それで怒って帰るんだからね。もし、そういう人に合せて(怒らないように)教えても結果がない。わたしは知っています。
自分の存在欲であらわれた思考で、その上に仏教を乗せても、土台が間違っているんです。
泥の上にしっかりとした建物は立てられません。しかし泥の中からは絶対に出たくない、という気持ちですからね。そういうことで、ヴィパッサナー実践をしてうまくいったり、いかなかったりと結果が出てくるんですね。
(危険な祝福とは - 新年法要2016(11) に続きます)
<スマナサーラ長老-新年祝福法要@マーヤーデーヴィー精舎 2016.01.17
https://www.youtube.com/watch?v=lRWqbF9hFBs より書きました>