(前回 全部お布施するなんて - 新年法要2016(14) から続きます)
「生きていきたい、ということが幻覚である」というのは覚るときの話で、皆様にはそれは幻覚ではないんですね。皆様には、生きるということは、すごく具体的な、じりじりとした事実でしょう。本当はそれは幻覚なんです。
存在、という一言は、成り立たない。
精密に分析してみると。細胞は四十兆あるでしょう。その一個一個が生きて生きたがっているでしょう。細胞一個を見ると大した命じゃないでしょう。でもわたしの命が大事だというのは、どんな細胞の命ですかね。成り立たないんです。いろんな部品を組み立てて、ある機能ができているだけ。
細胞もあほだからね、何とか自分が生きていきたいと思って頑張っているんです。
別に細胞は、ほかの細胞のことを心配しているわけじゃないんです。何か仕事をしなくちゃ栄養をもらえませんから、まじめに自分の仕事をしているんです。皆様とは違います(笑)。
心臓細胞が皆様のように仕事をしたら、一日で死にます。
心臓細胞は分裂しない細胞だからね。ずーっと小さいときから頑張って仕事をしている。手抜きは無いんです。休みはありません。
ほかにも、皮膚の細胞、いろんな臓器の細胞組織やら、一生懸命自分の仕事をしていて、それで生きている。
でも、細胞たちが生きていきたいと思うのは、あれは勘違いです。細胞は早く死ぬんだから。成り立たない。あれは壊れるんです。
悟りの智慧で見ると、「存在」という言葉が幻覚なんです。それで解脱は終了なんです。
預流果っていうのは、「わたし」というのは幻覚だと発見するんです。
それに合わせて、われわれは善行為するんです。
テーラワーダ仏教では、どんな善行為をしても、その力によって解脱に、涅槃に達しますようにと誓願します。たくさん金が儲かりますようにではないんです。それはやめてくださいとはっきり言われています。
存在欲がない人にとっては、別に困らなくても、かなり楽に生きていられます。
そういうことで、かなりしっかりと、正しい幸福の道を理解して、その道を歩んでみてください。
(おわり)
最初からよむ:仏教の、その安らぎって何なのか? - 新年法要2016(1)
<スマナサーラ長老-新年祝福法要@マーヤーデーヴィー精舎 2016.01.17
https://www.youtube.com/watch?v=lRWqbF9hFBs より書きました>