(前回 器より中身が大事 - 言葉遣い(2) から続きます)
ひとつ言葉を取ったら、その言葉に規定で決まった感情があるんだからね。
辞書に載っている意味が。
それを回転させることによって、こころを清らかにさせる。
たとえば、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と言ったら、すべて美しい言葉でしょう。その素直な気持ちだけ入れて念じてみる。それでこころがすごく清らかなこころに変わっていくんです。
冥想に言葉を使うのはそういうわけなんです。
言葉を使わず、冥想は成り立たないんです。
あまり心理学的に言葉がわからない人でしょう、たとえば「オーム」という言葉を唱える人々もいるし、マントラを唱える人もいるし。
それはよくわかっていない人々なんです。
わかっていないというか、神秘主義者で、非科学的ですよ。
だから「オームナンダラカンダラ」と、これは不可思議な宇宙からの言葉だと言ったら自我があり過ぎですね。
だから呪文は一切ダメ。
呪文の始まりはインド文化で、ラテン語でもあるみたいですから、ラテン語はすごく難しい言語でね、テキストを読んで分解しなきゃ意味が取れないんですね。
その文化になれている人にとっては、呪文を作ることはいたって簡単です。いくらでも作れる。
インドにインチキ宗教者がいてね、みんなに呪文を教えるんです。
これは内緒に。金取りますけどね。
自分が教えてもらった呪文は、いかなる場合でも人に教えてはいけませんよと。
自分の奥さんであろうが、母親であろうが、言わない。自分が何か冥想しているんだ、という程度は周りにわかってもいいんだけど、それ以外は言わない。
そこまで迷信で固まらせようとしているんですね。人をダメにさせようと。
だから、それは科学的・心理学的な、こころを成長させる方法じゃないんです。
こころをダメにする方法です。
これはいたって簡単。ダメにする方が簡単です。
こころはいつだって幻覚で生きているんだから。幻覚で活動しているんだから。たとえば神様がいる、神様に試されている、と思っている人々にとっては、神様が四角いものだ・丸いものだ・人間の形をしている、といってもどうでもいいでしょう。
神様には四本の手が付いている・千本の手が付いていると言っても、システムは同じです。そちらに支配管理されている。
呪文と言うのは「神様の手は何本か」というふうなものに対する答えなんです。
存在しない神様に何本手があってもどうったことはないでしょう。
だから、脳が妄想思考で活動するんだから、それに沿って言ったら、みんな乗ってくれます。
だから金を目指しているならば、その人も宗教家ではない。
普通の商人なんですね。生きることをすごく心配する人なんです。
生きることはどうでもいいやと言う人だけ、宗教家なんです。お釈迦様みたいに。
朝目覚めたところで、その日の食事ひとつがあれば十分です。
それも説法を聞いた人からいただくんじゃなくて、誰からでもいいんだから。
命に対して徹底的にどうでもいいと捨てた人こそが、本当の宗教家なんです。
宮殿を作らなくちゃと思ったら、ふつうの商人ですよ。自営業ですね。
そういう人々は、人間のこころが成長しちゃうと困るんです。人間が科学者になると困るんです。人間が客観的に物事を考えるようになっちゃうと困るんです。
わたしがよく言っている言葉は、「神様が人間を作ったならば、神様は大失敗者なんです」ということです。
全知全能の大慈悲を持っている神様が作ったものが、だらしなくて争い憎しみ合って、戦争しあったりしている作品なんです。
悪いのは誰ですか。
物語がありますね。
アダムとイヴが禁断の実を食べた。だからあなた方が悪いと。禁断の実を勝手に作ったのは構いませんけど、その実を食べたら苦くて吐き気がするように作っちゃえばよかったのに。
だから、その実に興味持つような人間に作ったのは誰ですか。それでわたしたちに罰を与えるんだというのは、冗談じゃないんです。
ある自動車メーカーのトラックのタイヤが外れるという設計ミスで事故ばっかりだったとき、「買った人(運転した人)が悪い」とメーカーは言っていた。
それでみんなが怒って調べたら、ユーザーではなくてメーカー側の設計の問題だった。
そういうふうに、車に問題があるのに、買った人のせいだというのはどういうことですかね。
責任はメーカーが持つべきでしょう。そういう明らかな屁理屈でしょう(神様のことも)。
それを言ったら、わたしが何を言われると思いますか。神様を冒涜しているんだと。直行地獄に行くんだと。
だから、宗教家が科学を嫌なんです。
論理的に物事を感がるのは嫌なんです。因果法則にのっとって物事を考えるのは大嫌いなんです。
「信じなさい、信じなさい。信じたらこういうふうになりますよ。題目を唱えたら商売繁盛するぞ」と。
だったら題目だけ唱えていればいいでしょう、何もしないで。でも、もし朝から店で「南無妙法蓮華経」と唱えていたら、誰も来ないでしょう。
お客が来たら「いらっしゃいませ」とか「何をお探しでしょうか」と言った方が商売繁盛するでしょう。
商売繁盛の秘訣は目の前にあるにもかかわらず、「南無妙法蓮華経」を唱えろと。
それから、その言葉には何の意味もないんですね。
「南無」というのは、サンスクリット語で「礼をする」という意味ですね。
蓮華経と言うとは「サッダルマプンガリーカスッタ」の漢文訳ですね。「妙法」といれたのは、インチキをするためなんです。われわれにわかることではないんです。「妙な法」なんです。
「サッダルマプンガリーカスッタ」というのはサンスクリットの名前で、これを妙法にしたんですね。
サッダルマと言うのは、「正法」なんです、正しい訳にするならば。
だから昔中国人が漢文を間違えたことを今になって(わたしが)教えてあげなければならないんですね。
そこになんで入ったのかと言うと、この神秘世界・迷信世界・幻覚世界を、そのまま残しておくためなんです。
今は、宗教ない人でも、「自我がある、自分がいる」と思っているでしょう。
この自我という錯覚で生きているんですね。これはいろいろ錯覚にラベルを貼っていく世界なんです。
だから、錯覚で生きるということは、ただ単に、生存欲以外なにでもない。
そういうことで、生存欲がジリジリなんですね。
命を捨てたところに、本物の聖者が現れるんです。
命を捨てるということは、すごく超越したことなんです。
いわゆる自殺することじゃないんだからね。
(次回 最終回 - 言葉遣い(4)は最終回です)
<東京法話と実践会 2016.03.13
http://www.ustream.tv/recorded/84412689
40:00~1:10:00頃より書きました。>
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