前回
人間が集まるときは食べることがメインテーマになっているんですね。
いつでも人間というのは何か食べるものを持って来て、その周りで会議をするんです。
どんな会議でも同じことでしょう。国際会議でも、国賓の政治家の会議であろうが、皆さんの子供の誕生パーティであろうが、同じことをやっています。
食い物の周りに集まってごちゃごちゃごちゃごちゃやっているだけです。
なんで食い物がそんなに大事になったか。
晩さん会とかいろいろあるでしょう。政治家が国際会議はディナーやりながら会議。ランチディスカッションとか、ブレックファーストとか。政治家は忙しくて時間がないんだから、朝食のときでも会議をやっているんですね。
なぜかというと、たとえアメリカの大統領でも、朝食を食べなくちゃいけないんです。
肉体は物体だから。それからは逃げられません。そちらにプログラムを入れておくんです。楽しみのプログラム。
人間が楽しみから逸脱して、リミット無く暴走している。
楽しみを探す道を暴走して行っているんです。
仏教ではそれはおかしいと、もうちょっとないのかと思うでしょう?
白いご飯を食べている人は、塩はないのか、ふりかけはないのかと聞く。ふりかけをかけたら海苔でもないのか、おしんこでもないのかと。さらにはちょっと焼いた魚でも……終わりがないんですよ。
楽しみの世界では、まともな楽しみがない。
なんでこころの中で楽しみを期待しているのか、本物は楽しみはないのかと。それをあげれば大丈夫。
だから仏教では、修行する人々は、純粋な、なんの副作用もない、肉体と関係ない楽しみをこころにあげているんです。
だから「飢え」がなくなるんです。
その精神的な安らぎを感じている人には、食べることと言うのは、肉体に材料をあげるだけ。車にガソリンをいれるでしょう? そのときお祭りはしませんね。ガソリンを入れるリミットも決まっているでしょう。金があるんだからと、タンクに入りきらない量を入れないでしょう。
だから、正しい智慧の世界では、皆様とまるっきり違う。
ただ物質を入れるだけの話になっちゃう。
だから在家の人には、こんなバカな連中に言ったってもと、言っていない。もうあまりにも崩れているんだからね。
しかし仏教の人々が聞いたら、「あなたたちはこういうふうにやってください」と言うんですね。
それは、「肉体に必要な量だけあげてください」です。
(次回 食事で気をつけること(5)変な “ 経済学 ” )
(スマナサーラ長老 関西月例冥想会 2016.3.27)