ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

「ブッダ・ニミッタ」とはどういうものですか?

質問

「ブッダ・ニミッタという修行法があると聞きました。自分がしっくりくるブッダのイメージを作るという方法です。

この間、会社で自分の悪口を言われているところを偶然聞いてしまって、怒りが収まらなくなりました。慈悲の冥想やヴィパッサナーをやっても怒りが消えないので、ブッダのイメージを作って怒りにあてがってみました。

そうしたら怒りが一瞬で消し飛びました。

 

そこで質問ですが、観想法やイメージトレーニングの場合、過去世で相応の徳を積んだ人が仏教のカシナ冥想や俗世間の願望実現で、目の前に見えるくらいまでイメージを作らないと、冥想成功や財産獲得が起こりえないと思います。

しかし、わたしが作ったブッダのイメージはとても拙かったのです。

 

また、ブッダ・ニミッタはわたしが学んだ限りアビダンマの中に出てきませんでしたが、どういうものなのでしょうか」

 

 

回答(スマナサーラ長老)

 

仏教ではそういう瞑想法はないんです。経典にもありません。

 

だいたい俗世間で、欲を目的にしてやっているものだから。

俗世間では成功するためにイメージトレーニングをやっていますよ。それが完全無意味だったらやらないでしょう。それなりに結果があるから、世の中にイメージトレーニングがあるんです。医者の薬というのは完治させてくれないでしょう、病気を。それでも薬を推薦されるし、飲むし。そんなもんなんですね。

 

医者は言わないんだけど、全く薬を飲まない生き方だったら、それが一番ありがたいんです。

でもわたしたちの生き方が間違っていて、感情で生きているから、そうすると病気になる。それで薬飲まなくちゃいけない。薬を飲んで完治はしないけれど、結果がない? ありますよ。

 

頭痛の場合は薬を飲むでしょう。その場合、痛みを脳に伝達させないだけでしょう。治ったわけじゃなくて、治ったと思っちゃうんですね。

ただ、脳に痛みが伝わる道を閉ざしただけで。ときどき、頭痛薬を飲んでも痛みが消えない頭痛もありますね。その場合は薬の効き目は全くない。なぜかと言うと、脳が作っているんですね、痛みを。勝手に。脳の問題で、それには薬がありません。

 

世の中でいろんなものがありますよ。

納豆食べたら健康とか、海藻食べたら健康とか。嘘ではないんだけど、納豆は体にいいけれど、それだけ食べたからといって健康な体になるわけじゃないんですね。そんな世界ですね。肯定も否定もできない世界なんですよ。

 

イメージトレーニングに対しても、わたしはそういう考えです。

それから向き不向きがある。イメージトレーニングできる人もいて、できない人もいる。

仏教でなんでそういう冥想がないのかというと、明らかに幻覚を作って幻覚に挑戦する世界なんです。

たとえば商売繁盛したい、金儲けしたいという世界で、金持ちということを肯定的にイメージするんですね。事実を否定するんですね。否定して、脳がある程度壊れちゃうんですね。それで、金持ちになる人もならない人もいるんです、それでも。

 

本当の法則はそうじゃなくて、収入を得るために、自分が何か道を選ばなくてはいけないんですよ。

それは当然捨てる道ですけど、理性で選んで行った方がほとんど成功します。理性でしっかりした商売をしても、金持ちになるかならないかは業の話で、イメージトレーニングの話じゃないんです。

 

イメージトレーニングをして豊かになった人は、豊かになる業を持っているからです。そういうことだから、仏教では扱わないんですね。そういう痛いの痛いの飛んでいけ、という法則はやらないんですね。

 

仏教が推薦しているのは、仏隨念なんですね。

それは具体的なんです。妄想ではないんです。それも向き不向きがありますよ。

 

わたしは昨日の朝、タイのお坊さんたちが唱えるお経を聞いていました。

「イティピソー…」とずーっと繰り返し唱える。一時間くらいね。それを聞いていてわたしは気持ちよかったんですね。あのお坊さんたちが、「アラハン、サマーサンブッドー」というときにブッダの能力をね、まじめに念じていると伝わってくる。わたしにも、「サンマーサンブッドー」というとどのような方でしょうかと、イメージが自動的に来るんですよ。

それにも向き不向きがありますね。

 

大乗文化の世界では、ちょっと難しいかもね。だって阿弥陀さんやらね、薬師如来やらで具体的な性格が出て来ないんですね。

 

だからわれわれは仏隨念をやっている。できる人はね。それでこころ清らかにするということになるんですね。

 

こういうことを憶えてはどうですかね。これはできないと思いますけど。

お釈迦様が住む部屋は、われわれの仏教用語で香房(こうぼう)というんですね。香りの部屋。汚れのない部屋という意味でね。Gandha kuṭī(ガンダ・クティ)。

 

自分のこころが、お釈迦様が住んでいる香房であると。イメージです。

それで大事に守るんです。汚れないように。怒り・嫉妬・憎しみなどなどで汚れると、これはお釈迦様が住むところじゃないんだと。ブッダが住むところじゃないんだというふうなことで、自分の心が清らかに保つことができるようになると思いますね。

 

そういうのも一時的な対処法です。

あなたの質問を聞いたら、問題は自我でしょう? あなたは本当の問題を言っていない。自我でしょう。自我は錯覚でしょう。だからまだ錯覚が消えていないんだから、自我を張るのは仕方がないんだけど、自我を張ったところでひどい目に合うんだよと理解したほうがよかったんです。それが仏教的な正しいやり方です。一時的な手当てではないんです。

 

ずっと自我を張って、張りっぱなしで苦しんだだけなんです。

自我がなければ問題はない。

 

「自我を張っているんだ、これは」とそういうふうに観察するだけです。

自我を張っているんだから怒りがくっついているんだと。

自我を張らなかったら無常だとわかる。

妄想だけだと思ったとたん、怒りが落ちてしまう。

落ちてもまた怒りが来るかも、来たら「また自我を張っている」と観察する。

それで怒りが消えちゃっても、また来る。

また「自我張っちゃったんだ」と。

 

自我を張りっぱなしで、失敗ばっかりやっているんだと自分のプロセスがわかってくるでしょう。

そういうふうにやったほうが簡単じゃないかなと思います。

(東京法話と実践会 2016.04.24

http://twilog.org/jtba_talk/date-160424/asc

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