前回
子供が親を信じるのは仕方がありません。
われわれ人間は信じることから学んで、年寄りになったんです。年寄りになっても基礎は基礎、どうしようもない。その基礎の上に立っている。
ときどき、親を信じることはちょっと常識範囲を超えてしまうとどうなりますか?
そこでトラブっちゃいますよ。親がなんでもやってくれるべきだと信仰しちゃって、大人になっても仕事も生活もできない。年寄りの親が中年の人の面倒を見なくちゃいけない。そういうケースが日本に結構あるでしょう。
それは信に問題があるんです。
幼稚園の子供たちは、お母さんがなんでも知っている、お父さんは世界一力持ちだと思うのはいいんだけど、だんだん大きくなって来たら、お母さんにもできないことがあると、お父さんもそんなには力持ちじゃないんだと、必要な程度に信を調整しなくちゃいけない。
その技術を持っていないんですね。
だからハチャメチャ問題が起こるんです。
学校に入学したら、名門学校だから、子供がしっかり成長して卒業するだろう、と言うのは信仰がやりすぎなんです。
しかし、信があって学校を選ぶんです。高校生たちが大学を選ぶ場合も、信が働いているんですよ。
だからと言って大学だけにはいれば万全だといえますか?
日本にはそれがありますよ。大学は卒業すればいいと、学ばなくてはいいと、卒業しても知識はゼロですね。何もできない。
仕事では、高校卒業した人にも負ける。それは信の間違った使い方なんですね。
大学を選んで入学したら、信仰はそこまで、残りは自分でやらなくちゃいけない。
とにかく信の弱みと言うのは、もしかすると裏切られる可能性があるということです。
信じた通り、信じた以上によかった、なーんだ大したことない、とんでもなく騙された、という四つの結果が信にはあるんですよ。
裏切られたとしたら、心理学的にみればだれの責任?
信じた自分にあるでしょう。自分の信を程度よく使わなかったのは自分なんです。
大金をだまし取られたとか、株がすぐに倍になりますよとか、そんな株が世の中にないとは思わなかったんでしょう。
というわけで、信を作るために、データが必要なんです。
すごい儲かる株があります、まだ誰も知らないから、今買っておけば一年で倍になりますよ、と言われてデータも調べず飛び込む場合は、妄信ですね。盲目的な信仰です。それは仏教では危険だ、ダメだという。ちゃんとデータを、相手の住所を調べたりする必要がある。今日買わなかったら明日はわかりませんよ、と言われると、自分の欲が自分の頭をおかしくしちゃっちゃってお金を払ってしまう。
(続きます
信(5)- 可能性が高い信 ākāravatī saddhā(アーカーラヴァティー・サッダー))
参考外部サイト:
パーリ語仏教用語集 『SOBHANA-CETASIKA(ソーバナチェータシカ):浄心所』
浄心所とは心を清らかにして向上させる心のはたらきです。「心の汚れを洗って、心を清らかにして下さい」ということは仏教の最も基本的な教えです。では、いったいどういうはたらき(心所)のある心が清らかな心なのでしょうか。アビダルマではこの疑問について「浄心所」できちんと説明しています。浄心所は全部で(25)あります。
1 saddhâ (サッダー:信)⇒ 自由で正しい判断による確信
……
3 hiri(ヒリ:慚)⇒不善行為をすることを恥ずかしいと思うこと
4 ottappa(オッタッパ:愧)⇒不善行為をすることを怖がること
……