前回
信(5)- 可能性が高い信 ākāravatī saddhā(アーカーラヴァティー・サッダー)
そういうわけで、仏教は信を心理学的な要素として、いかに管理するのかと教えているんです。
お釈迦様以外はこれを教えていません。
信の弱みも教えています。信じた通りになる可能性も、そうならない可能性もある。
そこで嘘を言ったりすることは信の世界で可能です。
わたしたちは、しゃべり方、表情などを調べています。
データを調べても、データ自体が嘘だったらどうしようもない。
たとえば、外国の大学の卒業証明書を偽造して持って来たらどうしますか。一般人には、それが本物か調べる術がないでしょう。大学同士や大きな組織だったら、調べられます。
偽金も同じです。わたしたちはあまり自分の一万円札が本物かどうか調べないんですよ。そこで信が働いているんですね。皆さんも一万円札をいちいち調べたりしていないと思いますよ。サインが入っているかとか印刷の具合とか。
そこへ百万円の束の中に一枚の偽札が入っていたら騙されちゃいます。
そういうふうに、どうやって身を守ればいいのか、方法がない場合もありますね。
ということで信がなければ生きていられないんだけど、信というのはヤバいものなんですね。
では、なんで信が必要ですか。
極端に疑い深い人っていうのは精神的に病気ですね。なんでも疑っている人というのは、信(という精神エネルギー)があまり機能していない。
仕事して得る給料というのも、仕事をしてから二週間、三週間後にもらうものでしょう。疑い深くて、「本当にわたしに給料をくれるのかい」と毎日聞いていたら? 仕事する前に給料を上げられませんし。
なぜ連帯保証人が必要ですか? なぜ銀行は担保をとるんですか? 信頼の値を上げようとしているんです。
どうして信が必要ですか?
疑いだけで生きていられないんですか。知ってる? その理由。
学ぶしかないんですよ。皆様、物事を知らなすぎ。学べばしっかりした人間になります。
この精密な科学世界で、信が成り立っているのは、いかなる生命にも先が読めないからです。
不可能です。将来のデータはゼロなんです。今の瞬間から次の瞬間のデータと言うのは、完璧ゼロ。どうやって先を読むんですか。先がわからなかったら何もできないでしょう。
(続きます
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