前回
次の問題は、「信仰」。
これは宗教組織で必ず信仰が必要だと言うならば、立証できないことを教義として教えている。立証不可能。だから信じなさいよと。
「○○の神を信じたら永遠の天国に生まれますよ」というのは立証不可能。それは五分五分なんです。そうかもしれないし、全く違うかも。
宗教もいくらか説明できるならば、派手に説明する。説明できないところはすぐ「信じなさい」と。たとえば、「お互い仲良く、心配しあって、頑張ってください」と言う場合は、すごく立派な話をするんです。だって立証できるんだからね。
「お互いに愛しなさい」と。なぜ愛さなければいけないのかと問われると「それは神様が汝らを愛したから」と、これは証拠がないんです。
イエズスの教えでは、「自分を愛することが神を愛することだ。だから互いに愛し合いなさい」というのは支離滅裂な教えなんです。
わたしは以前、各宗教の「愛」について資料として使おうかなと調べたとき、ひとかけらも論理的な愛がなかったんです。どこにも見つからなかったんです。
「神が人間を愛した」ということは証拠がないんです。逆な証拠はいくらでもある。人間はイエズスの受難を通して救ってもらわなくてはいけないと、われわれは初めから罰をうけているんですね、すべての人間が。だったら神というのは恐ろしい存在でしょう。生まれてきたばかりの赤ちゃんまで原罪で、人間に生まれることが罪ですよと。もともと人間を作ったのは神でしょう。それなら悪人そのものでしょう。論理的に考えれば。
支離滅裂な話です。
でも、その方々の話はすべてがムチャクチャではないんですよ。
世間の平和について、人間を助けましょうと、かなり立派にしゃべりますよ。そういう活動をやっています。キリスト教組織のお陰で助かりました、ということはいくらでもあります。その場合は、具体的に人を愛してあげて助けてあげて、協力してあげたんです。
だから、宗教の世界では、立証できるところには「信」を持ってこないんです。
立証できないところになってくると、「信仰」を持ってくる。信と信仰は違います。信というのは、データを調べて、可能性だけ取る。データを調べられない、神の存在は調べようがない、と言う場合は信仰で、妄信、迷信に入っちゃう。
たとえば、イエズス様っていい人だなあとか、信じることはできます。なぜならば、「イエズスはああ言った、こう言った」という文献くらいありますから、嘘かもしれませんけど、それはわれわれにとってはどうしようもない。われわれが手に入る文献をみて、「イエズス様ってすごく優しい人だな」と知らない人に対して「信」は作れます。しかし「信仰」は持たない。「その人は神の子だ」というのは、それはちょっと、証拠がない。
インドのどんな宗教も、信仰と言うものを必要とするんですね。
魂を浄化して、魂が永遠に住める場所に行きますよと言ったりもする。それを信じなくてはいけないんですね。しかし実際は五分五分でしょう。お釈迦様は嘘とも言わない。その通りになるかも、ならないかも。
だから、信を正しく使わないと迷信になっちゃう。
(続きます
参考外部サイト:
Q:三帰依に関していくつかの疑問が有ります。
帰依という言葉には信仰や信じるという意味が入るので、仏陀の教えは信仰ではないにも関わらず「仏陀を『信仰』します」「法を『信仰』します」と唱えるのは違和感が有ります。
A:仏教についての人の気持ち、理解は、三帰依することができるようになるまで曖昧です。疑いが多いのです。故に、修行も、悟りもなりたたないのです。理解して納得を得ることが必要です。