前回
ブッダがいい加減を言ったのではないんです。
「占いとかは畜生の知識だ。人間のものではないんだ」とそこまでけなしているんです。占星術とか、畜生がやるものだ、獣がやるものだ、とすごい非難的な言葉でしょう。なのに人間はやっているんですね。だからお釈迦様にはすごい真理の世界があるんです。お釈迦様はこころを知り尽くしているんです。
信というのはもう仕方がないものです。
なぜならば、呼吸にしても微妙に将来のためなんです。ご飯を食べるのも将来のため。だからすべての行為の次に現れるもの、その結果をしらない。だから信が必要。
呼吸することで生きられるということは、九十九、九九…パーセント確実でしょう。
しかし呼吸しても死ぬこともありますから、百パーセントではない。ご飯食べたら生きられますということは百パーセントの確率? そうではないんです。
ご飯を食べて病気になることもあるし、ご飯食べたからでしょう、生活習慣病にかかるのは。ご飯食べているからでしょう、歳を取るのは。だからご飯を食べたら生きられるというのは真理ではないんです。生きられる可能性がある。
困るのは、ガンを科学治療するのか、手術するのか、放っておくのかと三選択を出されたら、すっごい困ります。
なぜ医者は三択を患者さんに出すんですか。可能性の問題です。いわゆる、五十パーセントまでいかないんですよ。科学治療でがん細胞が完全に消えるわけではないし、身体も弱いんだから、治療で先に死んじゃうかも。手術してもどこまで回復できるのか。放っておけば死にますけど一年くらいもつかも。
だからどんな選択をしても一年以内で死ぬ可能性もありますね。
あるいは一つの選択肢を選んで一年ではなくて五年生きていたこともありますね。だからどうしたらいいですかってことがでてくるんです。それで医者に決められなくなっちゃうんです。
可能性が九十パーセントくらいあれば、「この治療をしなさい」と医者は言えます。
それでも患者は自分でサインをしなくちゃいけない。なんで手術の場合も、ちょっとした治療の場合でも人間ドックに行ったときでも、サインをしなくちゃいけない? それは安全が百パーセントじゃないんだから。
百パーセントは無理でも、五十パーセント以上でなければいけませんよ。信仰は五十パーセント。もし言っていることがいい加減ハチャメチャだったら、さようならと言ってください。約束も五分五分で、話も神話ばっかりで、神話がなければ宗教は壊れるんです。
(続きます
参考外部サイト:
三帰依をしたからと言って、だらしのない生き方をする仏教徒でも、包み込んで完全に守ってもらえると思うのは単なる迷信です。公園で子供が自由に遊び回ると、見守っている親に「完全に守ってあげたい」という気持ちがあっても守りきれないものです。けれども、真剣に勉強する生徒を先生が全面的に指導する、応援することはできます。三帰依のはたらきはこれに似ています。三帰依は一時的に不安を解消するのではなく、何にも頼らない自由なこころを育てるための最初の一歩です。
妊娠していたことに気がつかなかったある女性が出家して比丘になりました。戒律を犯していないことが判明したので彼女は修行を続けることができたのですが、子供に会いたくて悩んでいました。12年目のある日、出家して悟りを開いた我が子に出会って、彼女は失神してしまいました。息子から最初に言われた言葉は「あなたは他人(息子)に頼るのではなく自分に頼りなさい」というものでした。