前回
それで、「信は力」とはどういうことか。
それは行動するから。たとえば若者が頑張って京大か東大に入ったとします。大学を信じているんです。そこで、行動力が生まれて、やる気が生まれてきて、勉強する。大学が有名だから信じて、教授も著名人たちで、そこで信が生まれてきて、「もうやらなくちゃ」と「先生に『よく頑張った』と言われるまでやらなくちゃ」と、行動力が生まれる。それが力と言うんです。
そこでわれわれは学校で学ぶ。
なぜ学ぶのかと言うと、学んだ知識を使って、将来仕事ができるんだと、生きられるんだと思っているんです。学校で良く学んだんだけど、なかなか人生に使えない。勉強したことはあるんだけど、問題が起こると対処できない、責任ある仕事を任せられてもできなんだったら、学んだことが力になっていない。
皆さんが学校で学んだ英語とおんなじ。
誰だって日本人は学校で英語を学んでいるんですよ。
しかし力ないなっていない。力っているのは「使える」こと。だから大卒よりも専門学校卒のほうが仕事を見つけやすいでしょう。ときどき会社が専門学校を経営している。トヨタも三菱もそういう学校を持っています。そこで、技術知識と同時に、力も付いている。
大学生はものすごく苦労して仕事を見つけなくちゃいけないけれど、専門学校生は二、三年勉強を終えたら、そのままスッと仕事に入っています。
力っていうのは役に立つということですね。
信というのは力にならなくてはいけないんですよ。
仏道に入る場合は、これは避けられない。信という項目は。
仏道に来る人は、苦しみを乗り越えたい、解脱に達したいという、わけもわからない目的で来る。
解脱はわからないんだけど、仏道に来る人は生きることはある程度スタディしています。
生きることの苦しさ、虚しさ、ややこしさ、生きることになんの目的もなくなんでこんなことをやっているのか、何かないのか道が、という根本的にそういう状態があって、仏教は解脱ということがあります、と聞いて「じゃあ、それをやります」と。
わけもわからないんだけど、飛び込んでくる。
そこで仏教の学校に入ることになる。しかし、お釈迦様が「学校の学びは信から始まりますよ」と。ブッダを信じなければ何もならないんです。そこで迷信は禁止でしょ、妄信も禁止でしょ、根拠のない信も禁止でしょう。
データを調べて医者を信じるような信でなければいけません。
(続きます
スマナサーラ長老・関西月例冥想会 2016.4.30
https://www.youtube.com/watch?v=MEfigejxCSM(期間限定公開動画)より聞いて書きました。
参考外部サイト:
理性に基づいて客観的に具体的に考察することを、仏教は推薦するのです。根拠のない信仰は、危険視する。「信」というのは、論理的にものごとを納得することです。そのものごとが正しいか否か、実践によって確かめた結果得られるものを「確信」と言うのです。