読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

森達也監督ドキュメンタリー映画『FAKE』を観たよ

先日、映画「FAKE」を観ました。

(念のため後半部分はネタバレ注意とします。m(_ _)m)

f:id:thierrybuddhist:20160625173933j:plain 

この映画は、2014年に起きた「ゴーストライター騒動」の中心人物の一人である佐村河内守さんの日常を、森達也監督が描いたドキュメンタリーです。

 

この映画のについてのレビューをいくつか読んだら、「この映画のテーマは『受』(パーリ語でvedanā ヴェーダナー)なのでは?」と興味が湧いて、観てみたくなりました。

 

さて、「受」(vedanā)とは何かと言うと、仏教用語で「感覚」「感じること」という意味です。

 

今年3月から、スマナサーラ長老が数回に分けて解説されている、この長部経典「梵網経」では、この「受」(vedanā)について詳しく述べられています。*1

 

 

梵網経の中では、眼耳鼻舌身意の六つの器官から感じたものが、ものすごいスピードで切れ目なくインプットされることで、「わたし」という自我意識が立ち上がってくるのだと説明されています。

 

この「受」の次にあらわれるのは「渇愛」taṇhā タンハー、次いで、「固執」upādāna ウパーダーナ、というのが心の普遍的な進み方である、とブッダは説明しています。

 

つまり、発端となった「ゴーストライター騒動」を例にとるなら、

「佐村河内さんは実は耳が聞こえる」と新垣隆さん(佐村河内さんのかつての共同作業者)が自分で「感受して」、その自分の判断を「欲し」、絶対そうだという思いに囚われた(固執)という流れです。

 

また、逆も言えます。(佐村河内さんが、「自分は耳が聞こえない」と「感受」して、その自分の判断を「欲し」、絶対そうだという思いに囚われた、というふうに。)

 

それでこの「FAKE」は、いままで世間から叩かれる側だった佐村河内さんの「受」を、森達也監督の「受」を通して観客が自分達の「受」で受け取るということになっています。

 

少なくとも「受」のフィルターが3枚もかんでいるわけです。

この複数枚のフィルター越しに「真実」を取り出すのは相当難しいと想像できます。

そもそも、おのおの違いがある「受」(さらに渇愛、固執、……などなど)が標準装備されているわたしたちに、何が真実かとわかるのでしょうか? という素朴な疑問が湧いてきます。

 

しかも忘れてはならないのは、わたしたちは自分の感覚を通してでしか世界を認識できないのです。その認識システムに初期不良があるのに、ほとんどの人は、「この認識システム、初期不良だから交換して」と言えないのが現実です。代替品はそう多く市場に出回っていないからです。

 

その代替品(不具合のない代わりの認識システム)を手に入れることが、一番よい方法です。

 

二番目の方法として、 わたしたちはどうしたらいいのか?

目の前に、自分の感覚では明らかに「悪と思われるもの」があらわれたとき、どう行動したらいいのでしょうか……?

 

映画の中で、佐村河内さんが依頼した弁護士二名が登場します。

その二人の弁護士は、少々困惑気味でした。

それはなぜか。

 

「実は、この件については法律上の大きな対立点は無いんです」

 

という趣旨のことを弁護士は言っていたと記憶しています。

 

その理由はと言うと、

 

・楽曲の著作権については佐村河内さんが持つということで、双方に争いがない。

・作曲の際に佐村河内さんから新垣さんに音源テープが複数回渡されていて、その一部が残っている。(佐村河内さんの自室にもテープと思われるものが床に積み重ねてありました。ただ、中身は映画の中で披露されていません。不思議なことに。)

・残りの問題点は「耳の難聴具合」にある。両当事者が話し合いを持てばいいのだが、その機会が作られないのが解決に至らない要因である……

 

という内容だったと思います。

この弁護士が語ったことは、真相解明には一番重要だったなと気づいたのは後のことでした。

 

双方の代理人に話を聞くことで、この件の事実関係は割とスッキリ見えてきそうです。少なくとも双方の代理人に取材をするのは、今回の「ゴーストライター騒動」を長期間にわたって取り上げたメディアの責任範囲内だと思います。

 

弁護士の話の中に事実関係が垣間見えたのは、結局、客観的なデータを積み上げることで真実により近づくという方法の確かさです。

 

データ収集にはある程度時間が必要なので、自分の感情で事件に飛びついたり怒りに走ったりすることを抑えられるでしょう。

それは石を投げられる標的となった人を守るだけでなく、わたしたち自身を守るためでもあります。

感情で走り回るような落ち着きのない社会で、自分たちが幸福を感じて過ごすことができるでしょうか? 

 

(*・゜゚・*:.。..。.:*・ここから後半です '*:.。. .。.:*・゜゚・*)

ところで、映画の中で、「受」のほかに気になったキーワードがありました。

それは「信」です。

 

「わたしを信じますか?」というセリフが佐村河内さん、森監督から何度か出てきます。 

あるときは聞かれた側は「信じます」と即答し、あるときは「うーん……」と考え込む。

 

盲目的な信仰ではない「信」もまた、データがないと成立しません。

しかしいくらデータが集まったところで、確実性が100パーセントにはならない、と先日スマナサーラ長老の法話にありました。それが「信の弱みだ」と。*2

 

それでも信なしには社会で生きていけないわたしたちは、データを蓄積して確実性を上げるしか方法がないのだ、とも話されていました。

 

データは、ある程度事実に基づく証拠が必要です。

 

そのあたりも、「ゴーストライター騒動」のような事を繰り返さないポイントだろうと思います。

 

 

――おまけ――

 

このFAKEという映画は、佐村河内さんと妻かおりさんの夫婦愛の映画だという見方もあります。

わたしが見て思ったのは、これは夫婦愛と言うより「母子愛」かなぁと。

 

自宅に来客(テレビ関係者など)があるたびに、かおりさんが、ケーキ屋さんから買ってきたと思われるケーキを出すのですが、その様子がどうも、息子のところに遊びに来た友達をもてなす母親に見えてしまいました。

ちょっと高そうなケーキを用意する母の心理は、「うちの子と仲良くしてね。よろしくね」というものでしょう。わたしも自分の子供の友達に対して、ふつうに起こる胸の内です。

外出する際にも、佐村河内さんがかおりさんの腕にしがみついて歩いていましたね。これも子供と母親でよく見られる光景と重なりました。

 

かおりさんは、夫の仕事について詳しいことは一切知らなかった、と話しています。

その様子からも、かおりさんの夫に対する「信」はデータとは無関係な世界の「信」なのかと感じました。それはとても美しく強いものですが、反面、外側からアクセスできない、ある意味危険な領域でもあるのです。

 f:id:thierrybuddhist:20160625174042j:plain

広告を非表示にする