前回
それから最後に、誰かに殺される業がある場合は仕方がない、逃げられませんよ。
ただわれわれはそれを分からないだけ。自分がどのように死ぬのかと理解できないんです。なぜならば、死を体験できるプログラムがないんです。脳細胞に死を体験することができないんです。それができれば、自分がこんな感じで死ぬんだということがわかりますよ。でもそこは不可能です。だから、自分がどんな死に方かと誰だってわかりません。
津波に流されて死ぬ人もいるし、車にはねられる人もいるし。
しかし、車を運転する人は、何かあると足が自動的にブレーキに行くんですよ。事故を起こしたくないと必死だから。車を何かにちょこっとぶつけただけでも、とんでもない間違いだと思うんです。バックするとき、ちょっとバンパーに触れただけでも、「あ、ヤダ」というのがあるんですよ。それが運転手の精神なんです。
女の人は子供と喧嘩しながらバックしてガシャーンとやってしまいますけどね。それはいいんだけど。
わたしは事故っていうのは、女性に対しては緩めてあげますよ。
自転車に子供を乗せて運転している女性も、やばいというか怖いんですよ。車が来るか人が行くか気にもしない。そこはわかりますよ、子供のことしか頭に入らないんです。だったら世界が、そのお母さんを守ってあげなくちゃいけないんですね。
わたしも人に車に乗せてもらうときでも、周りの車を見るんですね。微妙にでも運転がちょっと間違いというか、自然でないのはすぐわかるんですよ。車の音を聞いて。「この人、落ち着いていない。この人焦っている。この人集中していない」
それがわかると、次に何をチェックすると思いますか?
「運転手は誰ですか?」と。そこで「女性だ」とわかったら、「あ、もうしょうがない」。こちらで自分を守ったほうがいいやと。男性だったらしょうがいないとは思わないんですね。「いいかげんにしろよ」と。
道路を運転する場合は、ちょっと何かあると運転手の足が必ずブレーキに行くんです。
考えていないけれど、足が行っちゃうんです。ですから、いくらなんでも、急激に車が止まるからちょっと滑るだけで止まります。あるいは、ブレーキをかけてもぶつかるんだったら、そういうときはハンドルを回しちゃうんですよ、車は人でなければ、どこにぶつけてもいいやと。それがふつう。
それでも、足がブレーキに行かない場合があるんです。
あまり、「アッ!」という感じがなくて、ブレーキかけられればいいや、という感じに。やっぱりその人に、車にはねられて死ぬ業を持っているんですね。いわゆる存在のパワーが薄くなっちゃって、こちらを脅してくれないんです。
これはもしかすると、お医者さんがよく経験できる世界なんですよ。
ある人に対しては治療がえらい真剣になる。別な人には決まりを守って治療する。同じ人間なのになんでこの気持ちの差は。誰だって死ななくちゃいけないでしょう。業が切れちゃって死ななくちゃいけない。普通の病気にかかって、医者は「こういうことだから、こういう治療をしよう」と冷静に対応する。同じ病気で他の人が来ると、医者は「大変だ、何とかしなくちゃ」とすごく真剣になる。なぜならば、真剣になった人の場合はまだ生き延びる業を持っている。業がこちらに反応を起こしちゃう。相手の業が。
業が終わっている人の場合は、ふつうでいいや、ということになっちゃう。
たとえば、お医者さんたちは、若い人に対しての治療には真剣でしょう。あれはかわいいからでもないんです。「この子は生きるべきだ」と。
そういうことでどんな人間もいつ死ぬかわからないし、どのように死ぬかわからないんだから、頑張ってもいつか死ぬんですよ。
その中で誰かに殺されるってことも、ストーカーに限らずあります。
そういうことで、あまり解決策のない答えで終了します。
(おわり)
最初から読む:
ストーカー事件を解決するには?(前編)- 仏教の答えは「病気に治療しなさい」
スマナサーラ長老・東京法話と実践会 2016.06.12
http://www.ustream.tv/recorded/88196045 (期間限定公開動画)を聞いて書きました。
この本では、ブッダが説いた「業(カルマ)」論をご紹介します。現代の皆さんは、スピリチュアルブームなどに乗って、過去世ばかり知りたがる傾向にありますが、本当は、まずは今ここの「業(カルマ)」について気にするべきなのです。では、過去世の業についてはどう考えるべきでしょうか。そのことについても、順を追ってお話ししたいと思います。 (商品紹介より)