ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

欲や怒りが絡んでいない「やる気・意欲」とは(前編)

質問

「先ほどの、やる気・意欲のことなんですけど、*1

欲や怒りが絡んでいない『やる気・意欲』とはどういうものですか? また、そういうものを自分でどうやって作っていったらよいのですか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

仏教は、布施という言葉でいろいろな善行為を教えているんですね。

布施というのは「与える」という意味で、そのときの決まりは、わがまま・執着を減らすという心理学的な働きを考えているんですね。

 

だから、あんまり膨大な世界だから、布施というのは。わたしはあまりしゃべりたくないんですけど、基本的にはこころのエゴ・わがまま・執着・欲ですね、これらを抑える行為なんですね。

 

そこでこの、布施の場合は、自分で判断して行う。

簡単な言葉で言うと、他人の役に立つことをしてあげる、ということ。

そこで、役に立ったならば十分、と満足する。見返りは期待しない。

 

何かの形で、社会に役に立つことをして、それによってわたしが褒めてもらいたいとかね、ご褒美が欲しいということはない。そのときすごく、充実感や喜びというのが出てくる。

 

ときどきボランティアで、老人ホームなどに行ってお手伝いする方々がいるでしょう。掃除してあげたり、寝たきりの人をお風呂に入れてあげたりして帰る。お金をもらわないんですね。ボランティアだからね。

 

そうすると、身をもってわかるんですね。

その組織がすごく助かっていることを。こちらは給料とは関係なく、年寄りの方々をお風呂に入れてあげたりする。そこですごく、喜び、楽しみを感じてくるんですね。

 

しかし、見返りを期待していると疲れるんですね。

「これはやっぱりやりたくない。でも決めたんだから行きますよ」というと、こころが汚れているんですね。

 

これは微妙に考えなくてはいけないことで、布施という概念に入っている道徳なんですね。

何かしてあげる。たとえば、動物にエサをあげたりするでしょう。それで動物がパクパクと食べると楽しいんですね。エサを食べたんだから、見返りとして何かやってくれるかというと、何もやってくれません。それでも楽しいんですね、エサをあげるのは。

 

ペットの場合はそんなにうまくいかないんですけど、たとえば、公園に行ったら池に鯉とか魚たちがいるでしょう。それで鯉のエサを買って、あげるでしょう。すると魚たちが喜んで競争して食べているのを見ると楽しいでしょう。あの楽しみには、欲も怒りも入っていないんですね。

 

しかし金がかかるから、それで欲が絡んできて、「もうここら辺にしましょう」ということになりますけどね。

 

そういうふうに、各自で見返りを期待しないで楽しみを得る方法っていうのを、いろいろ実験してみたほうがいいんじゃないのかなと思いますね。

(続きます

欲や怒りが絡んでいない「やる気・意欲」とは(中編)

 

法話・スマナサーラ長老 関西月例冥想会 2014.6.01

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/2047354.html を聞いて書きました。

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参考外部サイト:

【27】 意欲と行動/能動と受動

不貪、不瞋、不痴、慈、悲、喜、捨、などの感情は善です。「意欲」《チャンダ(chanda)》はそれらに支えられると善行為になります。

この場合の「意欲」《チャンダ(chanda)》は強いほうが良いのです。世俗的な幸せも、来世の平安も、輪廻からの解脱も行為の結果ですので、またその行為は「意欲」《チャンダ(chanda)》から生まれるので、精進して、精進して「意欲」《チャンダ(chanda)》を強くしたほうが幸福です。

 

*1:正しい意欲・やる気とは(前編)「意欲とかやる気とか、思いというものは、感情が多分に入っていて、それで物事を決定していいのかなと思ったのですが、そうした意欲・やる気・思いとはどう考えたらよいのでしょうか?……」