(前回
生きる目的は何か - 十二因縁(2) から続く)
そういうことで、生きる目的はあるのかい、と聞けば、神に作られた者だからその目的は神様が知っていると。
あなたは知っていても知らなくてもいいんじゃない、一応、あなたが置かれている環境で義務を果たせばよろしい、というところで、無我の話や執着の話が仏教で出てくるんだから、そこまで持ってくるんですね。ヒンドゥー教が紀元前二世紀や三世紀になってくると。
奴隷が、「わたしの神が決めてくれた。神が命じた仕事は奴隷でいること。それ以外を望むのは自我を張っているんだ」と。だから、「行為のみである」と頑張れば楽じゃないのかと。
ヒンドゥー教というのは宗教と言ったっても、戦争を明確に正当化する宗教なんですね。
他の宗教は、殺してはならんと言いながら、派手に殺しているんです。ヒンドゥー教は戦争することは神に対する貢献であるとしながら、あまり戦争しない。まあ、ようわからない。
中国と国境を挟んで問題があっても、やり合わない。
中国人が国境から難民で入って来ても、インド政府は人のことはまるっきり無視ですから、それほど負担がない。ヒンドゥー教で戦争しろ、殺せと言っているのに、実際には中国と戦争しない。
その反対に、「殺してはならん」と言っているキリスト教やイスラム教はとことんやっているんです。
その場合も、やっぱりこの、軍人のカーストがあるんですね。
サットヤというのはそのグループなんですね。土地を持っているし、財産を持っているし、仕事は戦うこと。軍人になるカーストに生まれたら、神が定めていますよ、殺すことを。それをやりなさい、と。
バガヴァット・ギーターという偉大なる聖書の中に、初めから終わりまで「殺せ」と道徳的に言っています。自我捨てなさいよ、わたしっていうものを捨てなさい、神に対する義務を果たしなさい、という道徳なんです。
おもしろいんです、人間っていうのは。それを読んでもそこがわからない。日本語訳でもそれは読み取れると思いますけど。
そういうことで、わたしたちにとっては、生きる目的は何なのかと知りたくなるんですね。
知りたくなるのは、生きることは大変だからなんですね。楽しくてハチャメチャ遊んで、何にも問題なく、ふざけて、万事うまくいっている場合は、そんなこと考えないんですね。
欲しい品物があった。財布にお金がある。買える。だったら困らないんですね。
だから、生きる目的はなんなのかと聞いた時点で、生きることは大変であって、ちょっとこれが大変だ、どうしようと困っているところなんですね。
それにわたしが嘘を言わずに、答えると、なおさら皆様は理解しがたいんですね。
生きる目的は皆無でなにもないんだ。ゼロだ。
ゼロっていうよりも皆無なんですね。
それは科学的な事実でもあります。
(続きます
スマナサーラ長老法話・関西月例冥想会 2013.12.15
https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。
関連外部サイト:
(13) 先祖供養について/協会活動と金銭(2001.7月)
*カースト制度に基づいた習慣は厳しく批判したのです。アンタッチャブル(不可触)の人々に出家を認めて、「人は平等で誰でも悟れますよ」と社会に訴えたのです。
*昔からヒンドゥー教でバラモン達は三つの聖なる火を作って一生大事に守って「護摩供養」する習慣があったのです。お釈迦様にとっては火に薪を入れる修行は無意味でした。ですから、両親、家族と行者達が聖なる火だと仰って、それらを大事にしなさいとある習慣を直そうとしたのです。