ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

無明(むみょう) - 十二因縁(6)

(前回

因果法則は多次元的 - 十二因縁(5)から続く)

 

因果法則は多次元的に起こるものなんです。

 

しかしわれわれは、生きる場合は三次元の世界で生きていて、考えるときは一次元で考えているんです。

考えることも多次元で考えなくちゃあかんだけど、そういう訓練を受けていないんですね。

 

だから考えて、考えて、いろんなレポートを出しても、どこかで崩れちゃいますね。

多次元で考えないんだからね。考えるときは一次元で考える。

 

だから一つの側面しか見えないんです。

たとえば学校の子供たちが暴れているんだ、ということにギャーギャーギャーギャーしゃべって、解決もなく終わっちゃうんです。

一本でしか考えないんです。

 

そういうことですから、思考が一次元的だから、お釈迦様が「これがあってあれがある、これがあってあれがある」と一次元で因果法則を語っているんですね。

 

存在の多次元的なところは、それは学者には絶対、何百年、何億年研究しても、達しないところなんです。仏教学者は。

 

そこで無明(むみょう)があって、渇愛(かつあい)があって。渇愛もひと単語に、一次元にしちゃったんですね。

あれも存在欲と恐怖感の二つが入っているんです。

 

だから、いつだってわれわれにあるのは、堂々とあるのは、無明なんです。

 

何で生きているのかと聞いたらわからないんだから。

なんでそんなに生きたがっているんですかね。なんであなた、科学的な事実を否定しているんだ。だって生まれた人は誰だって死ぬでしょう。

それって今日は日曜日である、というようなものでしょう。

それくらい当たり前のことなのに、嫌でしょ?

 

今日は日曜日で嫌だ、と思ってもどうにかなる? 放っておけばいいでしょう。

今日は日曜日ですかね、じゃあ日曜日の仕事をしましょう。

今日は月曜日だから、月曜日にやるべきことをしましょう。それで終わりでしょう

 

月曜日だけは嫌、火曜日になってほしいや、と自分勝手に火曜日に勘違いしたら最悪状態になっちゃうんです。

火曜日に医者に予約を入れていて、月曜日は嫌だから火曜日と言うことにして、病院に行っても医者に会えないんだからね。

「わたしは月曜日が嫌で、今日は火曜日ということにしましたよ」と言っても通じませんよ。

生まれたものは死ぬ、ということはそれ以上にハッキリしています。

 

だって、社会全体で決めれば、月曜日は火曜日とすることもできるでしょう。人間がもともと決めたことだから。

 

そういう、考えれば変えられるものでも、なかなか変えられませんし。

しかも生命の死は、そんなものじゃないんです。

 

まったくもって、変えることは不可能です。

なのにこれを認めたくないでしょう? どこまで無知ですかね。

 

今日は日曜日で嫌だな、と思う人は、そこまでバカじゃないんです。

わたしは今日は月曜日であってほしいや、というのは、その気になれば、みんなが賛成してくれれば、日曜日でなくて月曜日だと決めることはできます。

 

死にたくないというほど、あほじゃないんです。

 

だから因果法則は難しいと言っても、われわれの毎日の経験なんですね。

ただ調べないだけ。あまりにも無知で、無明で、調べる気持ちも生まれないんですね。

(続きます

トリオ - 十二因縁(7)

 

スマナサーラ長老法話・関西月例冥想会 2013.12.15

https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。

The Candle

関連過去記事:

無明とバカの違い - ブッダ・ラボ - Buddha laboratory