(前回
無明 - 十二因縁(6)から続く)
そういうことで、存在欲がある、恐怖感がある、ということを、まとめて仏教では渇愛と一次元にする。
この二つが、無明がなければ、桁違い、話にならないほどの無知がなければ成り立たないんです。
だから、無明っていうことは、何かと言っても、無明だからね、「何か」でもないんですよ。
いわゆる「智慧がない」という意味ですよ。
A - vijjā(ア・ヴィッジャー=無明)用語は精密に作っているんです。
「A(ア)」というのは「無い」、「vijjā」というのは「智慧」。
Knowledge がない、ということは普通のことです。これからKnowledgeというものは、これから頑張って取り入れなければいけない。
わたしに金がない、というのは損しているわけでもなんでもない。ただ「無い」ということを言っているだけ。無いということで何か困るならば、頑張って金を儲けなさい、それで終わりです。
しかし、有ったのに無くなった、これは問題なんですね。
一万円あったのに、もうない。この場合はマイナスですね。
「わたしに金がないよ」というのはマイナスの言葉ではないんですね。
普通の状況なんです。だからお釈迦様がすごく精密に、無・明、A-vijjaという言葉を使っているんです。
だって無知、あほ、ばか、に当てはまる単語はパーリ語にいっぱいあるんですからね。
しかし、この場合はすごく精密に用語を使って、智慧が無い、と。
それは明るい言葉なんですね。無いなら、得ればいいでしょう。
問題がわかったらね。
あなたが今苦しんでいるのは、おなかが空いているからね。
しかし食べ物がないから、苦しんでいるとわかったら、ご飯をもらったらOKでしょう。問題は解決。
そういうわけで見事な言葉遣いで、無明を語っている。
そこまで読めますかね、翻訳で。読めないでしょう。
無とか無いとか、空とかゼロとか、そんなにうかつにどうでもいい感じで使ってないんです、仏教は。
それは般若心経だけです。
信じられないあほが作った経典で、なんでもかんでもごちゃ混ぜに単語を使うんですね。
あれを憶えているならば、ただちに忘れてください。頭に置いておくだけでも迷惑です。
それでもうわかると思いますね。
生きていきたいのはなぜかとわからないからこそ、さらに生きていきたいというエネルギーが生まれるんですよ。
だから無明の中に、渇愛と恐怖感が入っています。
しかし一次元で語らなくちゃいけないから、一番根本の無明だけ語るんです。だって人間には一次元でしか思考できないからね。
無明だから、伝統的な訳だったら「行が生じる」というんです。
しかし、一項目だけじゃないんです。あれは三次元で働くエネルギーなんです。無明・存在欲・恐怖感。一緒に働いているんです。そこで一個しかとらない場合は、メインのものを取ってみるんです。
しかし一緒だから、一個取ったら壊れます。
渇愛を取り上げたら、無明も壊れます。恐怖感がなくなったら、これもまた全部なくなるんです。
三つが一つで仕事をするんです。
(続きます
https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。
参考外部サイト:
パティパダー巻頭法話(188) 人生の選択
意志は二種類に分けられます。これは前に説明しました。それで、本を読む、仕事をする、などの行為を起す意志のことは認識できると思います。しかし、生きる、という基礎行為を司る意志は、このままの能力では認識することができないのです。認識できない意志は、強烈なのです。ふつうはそれが管理できないのです。手におえないのです。勝手に起きているのです。それが一般人に理解できる範囲の考えですが、仏教は「苦、渇愛、無明」などの概念で、説明してあるのです。智慧が現われると、管理不可能な意志の管理もできるのです。