ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

無明・存在欲・恐怖感というトリオ - 十二因縁(7)

(前回

無明 - 十二因縁(6)から続く)

 

そういうことで、存在欲がある、恐怖感がある、ということを、まとめて仏教では渇愛と一次元にする。

この二つが、無明がなければ、桁違い、話にならないほどの無知がなければ成り立たないんです。

 

だから、無明っていうことは、何かと言っても、無明だからね、「何か」でもないんですよ。

いわゆる「智慧がない」という意味ですよ。

A - vijjā(ア・ヴィッジャー=無明)用語は精密に作っているんです。

「A(ア)」というのは「無い」、「vijjā」というのは「智慧」。

 

Knowledge がない、ということは普通のことです。これからKnowledgeというものは、これから頑張って取り入れなければいけない。

 

わたしに金がない、というのは損しているわけでもなんでもない。ただ「無い」ということを言っているだけ。無いということで何か困るならば、頑張って金を儲けなさい、それで終わりです。

 

しかし、有ったのに無くなった、これは問題なんですね。

一万円あったのに、もうない。この場合はマイナスですね。

 

「わたしに金がないよ」というのはマイナスの言葉ではないんですね。

普通の状況なんです。だからお釈迦様がすごく精密に、無・明、A-vijjaという言葉を使っているんです。

 

だって無知、あほ、ばか、に当てはまる単語はパーリ語にいっぱいあるんですからね。

 

しかし、この場合はすごく精密に用語を使って、智慧が無い、と。

それは明るい言葉なんですね。無いなら、得ればいいでしょう。

 

問題がわかったらね。

 

あなたが今苦しんでいるのは、おなかが空いているからね。

しかし食べ物がないから、苦しんでいるとわかったら、ご飯をもらったらOKでしょう。問題は解決。

 

そういうわけで見事な言葉遣いで、無明を語っている。

 

そこまで読めますかね、翻訳で。読めないでしょう。

無とか無いとか、空とかゼロとか、そんなにうかつにどうでもいい感じで使ってないんです、仏教は。

 

それは般若心経だけです。

信じられないあほが作った経典で、なんでもかんでもごちゃ混ぜに単語を使うんですね。

あれを憶えているならば、ただちに忘れてください。頭に置いておくだけでも迷惑です。

 

それでもうわかると思いますね。

生きていきたいのはなぜかとわからないからこそ、さらに生きていきたいというエネルギーが生まれるんですよ。

だから無明の中に、渇愛と恐怖感が入っています。

しかし一次元で語らなくちゃいけないから、一番根本の無明だけ語るんです。だって人間には一次元でしか思考できないからね。

 

無明だから、伝統的な訳だったら「行が生じる」というんです。

しかし、一項目だけじゃないんです。あれは三次元で働くエネルギーなんです。無明・存在欲・恐怖感。一緒に働いているんです。そこで一個しかとらない場合は、メインのものを取ってみるんです。

 

しかし一緒だから、一個取ったら壊れます。

渇愛を取り上げたら、無明も壊れます。恐怖感がなくなったら、これもまた全部なくなるんです。

三つが一つで仕事をするんです。

(続きます

サンカーラとは - 十二因縁(8)

 

スマナサーラ長老法話・関西月例冥想会 2013.12.15

https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。

The Backyard Trio: The Dreamers' Dreams

参考外部サイト:

パティパダー巻頭法話(188) 人生の選択

意志は二種類に分けられます。これは前に説明しました。それで、本を読む、仕事をする、などの行為を起す意志のことは認識できると思います。しかし、生きる、という基礎行為を司る意志は、このままの能力では認識することができないのです。認識できない意志は、強烈なのです。ふつうはそれが管理できないのです。手におえないのです。勝手に起きているのです。それが一般人に理解できる範囲の考えですが、仏教は「苦、渇愛、無明」などの概念で、説明してあるのです。智慧が現われると、管理不可能な意志の管理もできるのです。