ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

修行が始まった - 親の介護が辛くてしようがない(3)

前回

道場 - 親の介護が辛くてしようがない(2)

 

ですから、わたしたちは道場にいて修行中です。

人間は誰だって修行しなくちゃいけないんです。仕事をするために生まれたわけじゃないんです。ご飯を食うために生まれたわけじゃないんです。友達としゃべったりコンサートにいったり、映画見たりしてふざけて生きる為に生まれたわけじゃないんです。修行して輪廻を脱出しなさい、なんです。生命を乗り越えなさい、なんです。宿題は。

 

だから、母親の面倒をみるためには、俗世間的にいろいろなことをやめなくてはいけない。

われわれと同じ状況になってしまうんですよ。

 

わたしたちは遊びには行けない。出家だから。

日本のいろんなレストランでいろいろなおいしいものが売っていますけど、夜は行けないんだからね。ランチサービスしか食べられませんよ。

 

ここの隣に沖縄レストランがありますよ。

沖縄の料理ってどんな味かなと興味があるんだけど、午後六時半からオープンなんですね。だからわたしには、そこへいって食べてみることはできないでしょう。

 

ある程度で修行しなくちゃいけないとあるんだから、修行っていうのはふざけて遊ぶことは結構やめなくてはいけなくなっちゃうんですね。

楽しく生きてはいけません、ではないんです。楽しむことはいいんだけど、それで人格がだらしなくなるなら、その楽しみはやめる。

 

だから、公園をきれいにして気持ちよくなるならいいんです。

人格はだらしなくならないように。

それからパチンコに行く。たとえば、「これからみんなで公園を掃除しますから一緒にどうですか?」と聞かれて「いえ、わたしはちょっとパチンコに」というのはよくないでしょう? 

 

パチンコに行かなくても、友達と一緒に公園のごみを拾ったりするのは楽しいですよ。いろいろなことをしゃべれるわ、みんなと一緒におにぎりを食べてお茶を飲んで、これもまた楽しい。同時に、人格もしっかりする。

 

だから楽しみを否定するんじゃなくて、人格がだらしなくなることをやめるだけのはなしなんですね。

 

そういうことで、介護することになると、介護する側が、かなり制限されます。

外に出られなくなるわ、いろんなことをカットしなくちゃいけなくなる。それでいいんです。道場に入ったんだから。

 

わたしの修行が始まった、という気持ちで、すごく有り難い気持ちで、いたほうがいいんじゃないでしょうか。

(続きます

善行為というのはエゴを捨てること - 親の介護が辛くてしようがない(4)

 

東京法話と実践会 2016.07.24

http://www.ustream.tv/recorded/89905720 (期間限定公開)を聞いて書きました。

Helping Elderly Parents: The Role of Adult Children

参考外部サイト:

ジャータカ物語 王妃とバラモンの話(その1)

自分の身体も人の身体も「不浄だ、汚いものだ」と念ずることは、よくないと思う人々もいるでしょう。寝たきりの老人や痴呆の人々の介護をしたり、身体の不自由な病人のケアをしたりする場合に、障壁になるのでは?という疑念が生じるのかもしれません。人の身体を「不浄だ、汚い」と思うと、介護が苦痛になる…と考えてしまうのでしょうか。

 

不浄観の場合は、身体というものは、心臓・腎臓・大便・小便などの三十二種類の不浄な要素で構成されていて、綺麗に見えるのは表面的であって幻覚であるということを観察します。ですから実際には、「心臓は汚い」というよりも「心臓は欲を抱く対象ではない」という智慧が生まれ、そのことが不浄観の冥想の目的になります。

このように観ることが出来れば、介護をする場合でも「綺麗」でも「汚い」でもどちらでもなく、ただ単に「便である」「よだれである」などと客観的に観て、嫌悪感や不快感もなく仕事をすることが出来るのです。

 

 仏教は、看病、介護、年上の人々の面倒を見ることは、強く奨励しています。そういうことは、賞賛に値するような特別なことではなく、誰でもやらなければならない道徳的な行為です。