前回
母親というよりは、宿題の塊なんですね。
介護をしなくてはいけない「お母さま」ではなくて、自分の人格、性格の悪さも知り尽くしていて、次から次へと宿題を出してくれる「宿題の塊」です。
そうやって気持ちを入れ替えると、やる気が出てくると思います。
今はクタクタ疲れているでしょう? それが普通の日常の疲れの程度に減ります。それでどうったことない、ということになってきます。
やりたいことがいっぱい頭の中に割り込んでくると、介護が苦しくてたまらなくなっちゃう。
やりたいことはあるけれど、「修行するんだからね」と自分で納得する。
それで自分の人生が何もできなくなっても構いませんよ。
自分が過去世の借りを返しているんです。これは実感でわかりますよ、やってみると。介護することがすごく幸せですと、初めて感じるようになります。
わたしも実際知っています、そういうケースを。
自分の国で、ある若者が、お寺にいたんですよ。小さいときからお寺にいて、十八歳くらいになったとき、住職の有名なお坊さんが歩くことができなくなって、介護が必要になりました。
わたしが小さいころから、そのお坊さんは座ることはできるけれど、立って歩いていくことはできなくて、その状態がだんだんとひどくなっていったんです。長生きはしましたけれど。
その十八歳の若者が、三十歳くらいになるまでつきっきりで、二十四時間ずっと介護していたんです。
どんどんお坊さんの状態は悪くなって、他のお坊さんも歳で何もできなかったけれど、この若者がすごく体力があって、歩けないお坊さんを起すことやら身体を洗ってあげることやら、なんでもやってあげる。
この若者は、お坊さんが亡くなったら、やることがすべてなくなる。
出家しないから、結婚ももしかしてしなくてはいけないし、どこかで仕事をしなくてはいけないし。それなのに、本人は全然気にもしない。ものすごく優しいこころで介護をしている。
それで、その長老が亡くなったんですね。
この若者は倒れちゃって、もう泣きっぱなし。大男ですけど。
周りの人は、葬式のことよりも、この若者をどうやって慰めてあげようかと大変ですよ。
そこでわたしが考えたのは、これはすごいなぁと。
普通だったら、これで楽ちんだ、これから楽しもう、男らしい人生になるんだ、とわがままだったらそう思うでしょう。
しかし、その人にあったのは、単純に慈しみなんですよ。
お世話してあげると。そこで亡くなってしまって、居ても立っても居られなかった。
最後はもう、ご飯も液体にして食べさせなくてはいけない。すべてやってあげなくてはいけない。なのに、これを喜んでやっていた。
弱った人を助けるということは、当たり前、常識なんですね。
善いことをするとは、自分のエゴをいくらか捨てることでもあるんです。
だから、素晴らしい善行為です。善行為というのはエゴを捨てることですよ、結局は。最終的に、自我が成り立たないと経験することなんです。
弱った人、困った人を助けるときは、自我をちょっと抑えておかなれば。
分かりやすい言葉にすると、自分自身を捨てなければならない。
(続きます
東京法話と実践会 2016.07.24
http://www.ustream.tv/recorded/89905720 (期間限定公開)を聞いて書きました。
参考外部サイト:
最高の心とは?/嫁姑問題はなぜ起こる?他(Dhammacast) - Theravada Online ゴータミー精舎日記
Q 嫁姑問題はなぜ起こるのでしょうか? 夫はどう対応すればいいのでしょうか?
敵同士のように思っていた相手を介護したりされたりするのだから、お互いに最悪でしょう。最初から、「娘」にしておけば、いかに幸せか。