ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

涅槃を「光」と表現するのはなぜですか?

 

質問

「お釈迦様は涅槃を、否定形を使って説明されました。

それでも経典の中では、涅槃の説明がほとんどありません。

肯定で説明されるということはあるのでしょうか?

 

A vijjāも、無・明ですが、明というのは光で、結局、物質ではないのかなと。涅槃はそうした物質や場所というの理解でいいのでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

インドの言語などアーリア言語の場合は、言葉の使い方がありまして、「何も知らない」というときには、「暗黒」「暗い」という言葉を使います。

別に光の「暗い」ではなくてね、「何もわかっていない」ということなんです。

表現する場合は、「黒い」とも使います。

 

そこで、なにかわかったら、「光」という言葉を使うんですね。

だから、vijjāは「光」なんです。

 

また、「眼が現れた」と、「眼」という言葉も使います。

日本語でも、「目が覚めた」というのは、「今まで寝ていて目が覚めた」という意味だけではないでしょう。

「わたしは目が覚めました」というのは、「今までわからなかったことがわかった」という意味でしょう。それを、「あなた今まで寝ていたのか?」と聞き返したら、会話がおかしいでしょう。

 

また聖書のフレーズでも、そのまま使っているでしょう。

ある人が神を冒涜して目に鱗が入って、見えなくなってしまった。それで神を信仰したら鱗が落ちたんだ、と。眼が見えるようになったと。

 

それを日本語では、「今までわからなかったことがわかった」という意味で、「目から鱗が落ちた」と使っていますね。

今では日本語の独特のフレーズになっていますね。本当は、あれは聖書の言葉なんですね。

 

だからみなさんはときどき、わたしにも「目から鱗が落ちました」と言いますが、わたしは「ちょっと待ってください、どこに鱗が落ちたんですか?」とは聞かないんです。そうやって、元の意味と違った単語を使うときもあるんです。

 

そういう決まりがあります。目から鱗が落ちたと言いますけど、目からスプーンが落ちたと言わないでください。そうしちゃうと、言葉の決まりから外れています。

「目からコンタクトが落ちた」とは言わないでください。これは別の話になっちゃう。

この場合、やっぱり鱗でなければいけませんよ。

 

涅槃を言い表すときも、「光」という言葉を使って、「すべてにいきわたる光」とも言うんです。

それは、すべてわかった、ということでしょう。まだ宿題が残っている、という状態ではないんです。すべてわかっている。

 

それが、「目から鱗が落ちた、というのはどんな魚の鱗ですか、どんな大きさですか」という考えでは困ります。

ただそれだけです。

 

智慧に対する文学表現ですね、光というのは。

 

涅槃は、経験するものだから、説明する必要はないでしょう。

これからご飯を食べる人に、「このご飯はおいしいですよ。こんな味ですよ」とか、特に日本人は言うでしょう。

 

これから食べる人の前に置かれたご飯について、誰かが「この卵焼きはこういう味で、こういうふうに作るんだよ。この豆は、こういうふうに作って、昆布も入れてあるのでその味が隠し味で、醤油と合わさって、それで歯触りはこんな感じですよ」と言う?

 

涅槃っていうのは、修行いた人の前に用意されている食事のようなもので、これから食べるんだから、そこは、言葉がないでしょう。すでに食べた人は、「おいしかった」と言うしかないでしょう。

 

涅槃っていうのは、究極の幸せで、言葉では言えません。

究極に苦がなくなった状態で、安穏で、生きることのゴールで、言葉にならない喜び、安穏を感じるんです。

その程度でしか言えないんですね。

言葉がないんですよ。

 

理屈で考える人々は、言葉のリミットを知らないしね。

言葉は何かを代弁するだけ。

 

ハンコを押すのも、ハンコが重要なのではなくて、「本人が認めた」と、そちらに意味があるんです。

ハンコ自体に意味があるのではないんです。

 

言葉っていうのも、われわれの気持ちを表明する、音、信号ですよ。

そのときに、インスピレーションを使って、より美しく、より楽しく語ろうではないかと。

「わかった!」というのではあまり美しくないから、「目から鱗が落ちましたよ」というと、インパクト強く気持ちを表現しています。

 

インドの言語ではその場合、光が現れました、と表現する。

お釈迦様は、「目が開きました」とも言っています。「目が生まれました」と。それはお釈迦様に今まで目がなかったんですかね? そういう意味じゃないんです。

 

「覚ったんだ」と表現する初転法輪法でも、「目が現れました」と表現されています。

それも、三十五歳までお釈迦様に目がなかったわけじゃないでしょう。

「今まで暗闇にいました」つまり、「無知でいました」と。今は真理がすべて見えていますよ、ということを文学的に表現しました。

(おわり)

 

スマナサーラ長老法話・関西月例冥想会 2013.12.15

https://www.youtube.com/watch?v=4vsnfGBmmrg を聞いて書きました。

Sunrise, Sunset 2008 - 2009 Pocket Planner

参考外部サイト:

パティパダー巻頭法話(193) 最前線に立つ戦象

お釈迦様が成功した秘密は何でしょうか?

 第一に挙げられるのは、「落ち着き」なのです。お釈迦様は、つねに冷静で落ち着いていました。イライラ、心配、ぼやき、嫌味などは一切なかったのです。
逆境で活動していることを明確に理解して、納得していました。お釈迦様にしてみれば、攻撃は当然な流れです。期待はずれではないのです。しかし、お釈迦様のことを知らない人々も、お釈迦様の姿を見ただけで惹かれてしまったのです。その理由は超人的な落ち着きにあったのだと、経典は明確に記しています。灯台のように光を放っていたからではないのです。)……

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