ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

社会と縁を切ったらどうなる? - 束縛の多い世の中で自由に生きる(8)

(前回

文化の束縛 - 束縛の多い世の中で自由に生きる(7)

 

社会・世界との関係を切ったらどうなるのか?

面倒くさいですね。条件、束縛……あるわ、あるわ。じゃあ、それを捨てましょうか?

 

それは不可能です。

切ったつもりになっても、自由はありません。

「わたしは全部、社会との関係を、束縛を切っちゃったよ」

あれは勘違いです。

 

試しに実験したらどうですか?

「わたしは国の束縛から自由になります」「法律なんか無視するんだ」「住民票から名前を消してください」と。やってみて。

 

口先でそういう生き方をして、苦労するかもしれませんけど、その人だって国の法律を守らなくてはいけないんです。社会との関係を絶つことはできません。

 

ですから、余計な、大胆なことをしないほうが自由なんです。

 

退職したら、一人ぼっちになったら、頼る人がいない、という人生は大変ですよ。

ということは、束縛が必要なんです。

 

特に男性の方は、「仕事こそすべてだ、家族なんて関係ない。わたしは仕事をしているんだ」というあの錯覚で、はた迷惑で生きて、それから退職するでしょう。それで終わり。あの苦しみは何ですかね。

 

だから束縛っていうのは必要不可欠なものなんです。

会社で仕事だけじゃないんだよ。家族もいるんだよ。仲間もいるんだよ。いろんな束縛があるんだよと理解しておかなくちゃいけません。やることが無くなったら生きられない。

 

不可能な「関係を切る」のではなく、穏やかな関係を保つべきです。

関係をすごく美しく保つべきなんです。

 

関係を持つとは自我を張らないことで、ギブアンドテイクの関係でもあります。

そのように社会との関係を持つんです。そこで、自我を張れなくなります。あまりにも束縛があり過ぎちゃって。うまくすればそれで、自我のない精神に達せられるんです。

 

「自分」と言うものを考える余裕がなくなっちゃうんです。

「条件、条件、条件……」で。「義務、義務、義務……」で。それで一日中忙しい。そこで自我っていうのは消えちゃうんです。

 

いつだって生きることはギブアンドテイクの関係だということ。

一人で、自我を張って生きているわけじゃないと理解しておいてください。

 

それで、結論は、自由に生きるとは、束縛があるからこそ「世」というんです。

「世」とは仏教定義で言えば「束縛」なんです。

 

個人が世にどのように生きるかという問題なので、世界を変えるのではなく、自分が世に適用できるように成長することです。

世の中で生きることだから、世の中とは束縛のことなんです。

 

だから世界を破壊するんじゃないんです。

世界に対して攻撃態勢に破壊することは、勘違いで、命の反対なんです。個人個人がいかに適応できるのか、と考えることは自然法則なんです。進化論なんです。だから問題は個人にあります。

 

出かけるとき雨が降り出したら、雨が降るのをとめようとするのではなく、自分が傘をさして出かけることです。

そのたとえ話を憶えておいてください。

 

われわれ世界の人間がやっているのは、雨に対して攻撃することなんですね。「このやろう、なんで雨が降っているんですか」と。爆弾しかけてやるぞ、と。何考えているんですか。雨が降っているなら傘をさしていけと。

 

それでその人は自由でしょう?

雨によって自分の行動に問題が起きなかったんです。

 

世界っていうのは、宇宙っていうのは、わたし個人に何とかできるものではないんです。

いつでも個人では、適応する、成長するというプログラムで生きていかなくてはならないんです。

 

別の言葉で言えば、すべての物事は自分に対する学校なんです。

自分がいつでも生徒です。だから何からでも、何かを学べる。これは学校です。

 

人に会うたびに、「この人は先生です」と。何か教えてもらうでしょうと。

 皆さまはどうかわかりませんけど、わたしは子供たちから学んだものは結構あります。ビックリするほど学んだことがあるんですね。

 

例えば、専門の教師たちがいるでしょう。専門の、プロの教師だから、できないことはたった一つですね。教えることができない。他はなんでもできる。だからプロといいます。

 

昔、ちっちゃな子供たちが「遊ぼう、遊ぼう」と言うんです。

わたしは遊びはわからないし、子供の遊びは面白くないしね。わたしは「遊びはよくわからないんだよ」と言った。そうしたら、子供たちがゲームのやり方をしっかりと教えてくれるんです。そこでびっくりしたことは、「わからないなら憶えてください」という、わたしの尊厳を冒すことはみじんもしなかったんです。

 

わたしにわからなくなってくると、「じゃあ、こういうふうにしましょう」とわたしに教えるプログラムを変える。そこでびっくりしたんですよ。これってすごい教師でしょう。人にものごとを教える。物の見事に。でも、相手の尊厳を一つも冒さない。

 

しかも、わたしの希望を聞いてくるんです。「これをやる? あれをやる?」と。これはハチャメチャかわいいんですよ。大人に向かって教えることが。

 

なんで世の教師たちにその態度がないんですか。なんで生徒たちの人権を奪うんですか。

 

憶えておいてください。

どんな人も何かを教えてくれる教師だと。

動物たちにしてもわがままで何かを教えてくれているんですね。

 

傘をさすことが自由で、それが自分の幸福です。

傘をさすことで自由を感じるんです。降りたければ降ってください、わたしは自由です。そういう経典がありますよ。お釈迦様がうたっています。

「降りたければ降ってください。恐怖も何も感じませんよ」と。

 

これでほとんど俗世間のほうは終わっちゃって、次に仏教のほうに入ります。

(続きます

身体の制限 - 束縛の多い世の中で自由に生きる(9)

 

束縛の多い世の中で自由に生きる~本当の自由とは~

スマナサーラ長老法話 2016.07.17 

https://www.youtube.com/watch?v=Q_r3KpWK_JY&feature=youtu.be(限定公開動画)を聞いて書きました)

 

ぼくはだれもいない世界の果てで