ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

栄養のとり方 - 束縛の多い世の中で自由に生きる(10)

(前回

身体の制限 - 束縛の多い世の中で自由に生きる(9)

 

「栄養補給」

物質的栄養と、精神的栄養の二つがあります。

だから命っていうのは、栄養を補給することで成り立つ一時的な現象です。

ちょっとした現象です。すぐ壊れます。この現象をたもつために、ずっと栄養補給をしなくちゃ、エネルギーと補給しなくちゃいけないんです。

 

存在欲によってエネルギー補給の適度が壊れます。

エネルギーを補給すると言っても、適度を壊すと命そのものを破壊するでしょう。

 

存在欲はとても危険で、存在欲がある必要はないんです。

物事は変化するんだから、存在欲があるかなかいか関係ないんです。

 

皆さんがよくわかるのは物質的栄養でしょう。

 

なんで人間が、食べることによって世界的に問題を作っているんですか。

多くの人が生活習慣病でしょう。豊かな国々の。それで別の国々では、栄養失調で飢えたりしていて。これっておかしいでしょう。法則を破っていますよ。地球の一部の国々が貧困に陥っていることは、世界全体に関係があります。バランスを取らなくちゃいけないんです。豊かだと自慢する人々は自己破壊の道を歩んでいます。

それ、存在欲なんです。

 

いくら金があってもアメリカなど大国にとっては足りません。

世界一大きな国なのに、隣の国の土地まで、「俺のものだ」と一方的に言う。証拠はないとは認めません。だって、中国の文化は一番古いんだからねと。それって関係ないでしょう。

 

では、精神的栄養ってなんですか。

これは、眼耳鼻舌身意で色声香味触法を受け取って、こころを回転させること。

だから見ること、聴くことは、生きる為の栄養になるんです。こころが回転するんです。こころが止まったら死ぬでしょう?

こころが回転するために栄養を受け取るところが、眼耳鼻舌身意の六つがあります

眼で見る、耳で聞く、花で嗅ぐ、舌で味わう、体で感じる、意で考える。これで生きられる。これをやめたら死にます。

 

そこで、物質的な栄養をとるときでも、節度を守らないで、肉体を壊して、精神的栄養を採るときでも、節度を守らないで自分が不幸になる。

これも存在欲の問題です。

 

これらを制御して、適度・適量をしっかり知って、幸福をもたらすものを選択して使わなくてはならないんです。そちらに自由はありません。

 

食べたいからと言って、食べる自由はないんです。

「わたしはケーキが大好きだから」と朝昼晩、ケーキばっかり買って食べていいんですか?

 

眼があるからと、なんでもかんでも見るんじゃないんです。

耳があるからといってなんでもかんでも聞くんじゃないんです。

いつでも適度、適量。これを知っている人は自由です。これを知らないなら、自由どころか無期限の刑務所です。

 

刑務所は二つくらいありますよ。

閉じ込めらる独房的な刑務所と、オープンハウスというスペースで生活できる刑務所。閉じ込めない。インドでもありますよ。そういう刑務所では、冥想を教えたりもするんですね、ゴエンカさんのところが。インド政府も仏教は嫌いだけど、そこは認めているんですね。

 

そこで、囚人たちが、宗教活動ができることはすごく幸せと感じてきて、自分たちの過ちを理解して、しっかりしたおとなしい社会人になっちゃって、それで冥想すればするほど、刑務所の官吏の人々も、冥想する囚人の人々のことを信頼し始めちゃうんです。

するとどんどん、その囚人の人たちは自由を感じるようになる。

 

人間がやっていることは、オープンハウスの刑務所なのに法則を犯して、独房に入れていただくことなんですね。独房には光も入らない真っ暗なところに閉じ込められている。そういう生き方をやめてほしいんです。

だからわれわれは、適量・適度を考えなくちゃいけない。

(続きます

こころの病み① - 束縛の多い世の中で自由に生きる(11)

 

束縛の多い世の中で自由に生きる~本当の自由とは~

スマナサーラ長老法話 2016.07.17 

https://www.youtube.com/watch?v=Q_r3KpWK_JY&feature=youtu.be(限定公開動画)を聞いて書きました)

Nutrition: vitamins and minerals

参考外部サイト:

パティパダー巻頭法話(197) 食事と解脱の関係

精神的栄養の第三は、識(viññâna)です。認識し続けることはこころの栄養なのです。この肉体の認識機能が停止する瞬間が、その生命の死なのです。