それで、自分でないものを自分のものだと思って、わたしは幸せだと思っても、それは幸せではありません。
だから、「この土地はわたしの土地だ」と思っても自分のものにならないんです。
自分より鳥たちが、その土地に気楽に堂々と使っているんです。
「立ち入り禁止」と看板が立っていますけど、鳥たちは平気で行ったり来たりしている。
全然関係ないんです。どんな看板を立てても。なぜなら、鳥たちは「自分の土地」がないんです。自分の土地を持っていない鳥たちは、どこでも自由に生き来できる。
土地を持っている人間には、どこでも自由にできるということはできません。
大きい声でしゃべることもできません。隣に聞こえちゃうとなんか文句を言われるとか、クレームがつきますからね。
それは物を持つということの「おかげ」なんです。
しかも、持っているものも捨てていかなければいけない。
自分のものじゃないんですよ、初めから。
この体さえも、初めから自分のものにならないんです。
自分のものにならないもの、まったく他人のものが自分の幸せだと思うなら、もうとっくに幸せでしょう?
地球は全部わたしのものだ、と思っちゃえばいいんじゃないでしょうか?
「このアパートはわたしのアパートだよ」と自慢しても、あなたのアパートじゃないでしょう。家賃を払わなかったら追い出されますからね。
それで自慢して楽しむことができれば、この地球は全部わたしのものだと思った方がいいんじゃないですか。なんでそんなスケールが小さいんですかね。
「地球はわたしのものだ」というのは、「これは成り立たない」とわかるでしょう。それは頭がおかしい考え方だと。
だったら、こんな健康なカッコいいからだがわたしのものだと思うことも、頭がおかしいんです。
「この食べ物」「この家」「このアパート」、それが「わたしのものである」と。
「わたしは結構カッコいい、美しい人間である」と肉体に対して自慢することも、地球に対して「わたしのものだ」と思うことは全く同じなんですね。おかしいんです。
(続きます
参考外部サイト:
仏教徒の世界はどちらかというと兄弟・姉妹たちの集まりのようなところです。皆偉大なる父・釈尊の教えに出来るだけ従って行動する。出来が悪い兄弟もいるかもしれませんが、そのひとを貶したり苛めたり、馬鹿にしたりすると父親は賛成する筈もない。親の口癖は「兄弟仲良く」ということですから、釈尊もこの点では全くも同じです。