<前回 心がやけどしている - ウェーサーカ祭2007(4)>
そこでお釈迦様が言うのは、そのやけどを治したら、それほどの幸福はないんだよと。
だから、瞬間にしてその人は幸福を感じるんです。体中がやけどしていて、体の中も外も、なんでもかんでも、瞬間にしてやけどをなくしてみたら、病気を治してみたらどうですか? それが幸福だよと。
氷水をつけたり、いろいろクリームを塗ったりしなくても大丈夫なんです。
おもしろいことに、世間は、体中にあらゆる薬を塗ったりして、ガーゼを張ったり、包帯を巻いたりしているほうがいいと思っている。やけどしていないから薬も何も塗っていない人を軽視する。「この人は何もつけてない」と。「かわいそうに」と。
何も物を持たないお釈迦様や弟子たちは、結構、非難の目で見られたんですね。
暗い連中だと。家もないし、アクセサリーも付けていない。ボロの衣をまとっている。ブランド物でもないんだと。
そういう感じで馬鹿にした。
当時はブランドというと、カーシーという国の布ですよ。
世間が仏教について何を思っても、お釈迦様たちは病気を治しているんだからね、あれやこれやと要らないんです。
お釈迦様が真理として言っているのは、
「われわれはやけどをして苦しい状態で、イライラしている。そこでこの苦しみが消えたら幸福だと知っている。しかしやり方は、あれこれとただ塗っただけでは治らないんです。それには、ある唯一な薬が一つあるんだよ」
と。
やけどした人は、あちこち走り回っても治るわけないでしょう。早く病院に行かなければいけないし。
そこでお医者さんが治療する。ひどいやけどではない場合は、早く治ります。だから病院にいるのは嫌だとか、病院の食べ物はおいしくないとか、そんなことを言っている場合ではないんです。
ということで、「やけど」とわたしが言ったのは、皆さまもよく知っている単語で、「渇愛」なんです。
どうしても、なにかどこかで納得がいかないんですね。「足らない」という気分があるんです。
(続きます
ウェーサーカ法話(2007年5月12日)アルボムッレ・スマナサーラ長老
(https://www.youtube.com/watch?v=sQT_7Z4XbwA を聞いて書きました)
参考外部サイト:
仏教は、ズバリ、その問題に答えようとしているんです。家庭もうまくいっている。友人関係も仕事にも問題はない。それでも何か足りないと感じる。おっしゃるように、自分ではどうにもできない何かがあるのです。