そこでその、こころにある渇愛をなくしたら、その人が初めて幸福を感じるんです。
だから仏教は否定的に幸福を、皆様方の楽しみを否定しているわけじゃないんです。「そんなのはいくらやっても病気は治りません。
気持ちはわかりますよ。
やけどした途端、水の中に手を入れる。気持ちはわかります。
しかしそれでは治りません。水ぶくれが出ます。
この渇愛をなくしたならば、その幸福は、世界で天国の永遠の楽園というものがありますね、みんな信仰しているでしょう。
その永遠の楽園の幸福をまとめても、人間に想像できる一切の幸せ・豊かさ、全部まとめても十六分の一にも値しないんだよと。
仏教は「六天」ですからね。天国は六段階ありますからね。
そういう天国、梵天、全部一か所にまとめて、地球の人間が考える幸福をすべてまとめてみても、自分のこころにある渇愛をなくすことと比較すると、十六分の一にも値しないんだよと。
そういうことだからお釈迦様が、どれほど幸福なことを教えたかということなんです。
もっと具体的に考えたほうがいいんですよ。
ちょっと一キロくらい体重が減っただけど、えらい舞い上がって喜ぶでしょう。ちょっとインテリアがきれいなレストランに行っただけで、「ものすごいおいしい!」と。雰囲気でだまされちゃって。
そこに若くて美しい人々がテーブルまで案内して、注文を聞いて、かなり立派なデザインのレストランであれば、なんのことなくおいしいんですね。雰囲気でだまされますからね。
(続きます
ウェーサーカ法話(2007年5月12日)アルボムッレ・スマナサーラ長老
(https://www.youtube.com/watch?v=sQT_7Z4XbwA を聞いて書きました)
参考外部サイト:
完全たる悟りをひらいた(阿羅漢)Upacâlâ (ウパチャーラー)という比丘尼がいました。この比丘尼は、サーリプッタ尊者の妹でした。
ある日午後、たった一人で森の中の木の下で禅定に入っていたのです。そのとき、阿羅漢尼に嫌がらせをする目的でマーラ(悪魔)が来たのです。
「比丘尼よ、あなたはどこへ生まれ変わって快楽を楽しもうとしているのか?」
阿羅漢尼は答える。「友よ、私はどこの快楽でも期待していないのだ。」
マーラはこのように語る。(意訳)「天界はいろいろあるのではないでしょうか。三十三天、耶摩天、兜率天、化楽天、他化自在天という天界がある。そちらに(生まれ変わる)希望を抱いて励みなさい。(快楽)幸福を楽しみなさい。」
ウパチャーラー阿羅漢尼が答える。「三十三天、耶摩天、兜率天、化楽天、他化自在天という天界がある。五欲に執着している者は、それらを目指す。(そちらに生まれ変わることを期待する)彼らが再び悪魔の支配下になる。(輪廻転生することになる。天の寿命が終わったら、地獄にも餓鬼道にも畜生にも落ちるという意味です)」
「一切の世界は燃えている。一切の世界は煙を出している。一切の世界は熾燃している。一切の世界は震えている。震えない、動じない、普通の人に経験し難い、マーラの管轄を超えている境地(状態)がある。私の心はそちらに傾いている。」(Samyuttanikâya I-133)