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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

ブッダの教えを学ばなくてもよい人間になれるか?(1)

説法めも 因果法則・業(カルマ)・輪廻転生

質問

「世の中には、お釈迦様の教えに学んでいないのに、こころが育っているような言動をする人を時々見かけます。お釈迦様の教えを学ばなくてもこころが成長するのでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

人はそれぞれ無始なる過去の輪廻と言うものがありますから、誰だって基本的には同じですけどね、そこの輪廻っていうのは同じですからね。

 

輪廻転生する過程で、われわれはどのように生きているのかということで、それぞれの人の道が変わっていくんです。

過去世でそれほど悪いことをしない生活ができたならば、ほとんどこの、環境だと思いますね。環境によって、悪いことをしないで良い生活ができるようなところに生まれたりする場合もありますね。

 

紛争地域に生まれたら、よいことができにくいでしょう。

つまり環境なんですね。

 

そういうわけで、生きているうえで環境によって善いことをしたり悪いことをしたりして、それぞれの人の、生命の道が変わっていくんですね。

そこで生まれてきた生命の差が成り立っているんですね。

 

わたしたちはなんで互いに違いますかというと、それぞれが背負っている輪廻の過去なんですね。

必ずよい方向に流れるかというとそうではない。これは「転生」ですから。輪廻ですからね。だから、過去世でよいことをして、今はいい生活だからと言って、次からも同じ回転をするかと約束できません。

 

それは転生、ということで回転するんですね。

輪廻とはそういうことですからね。これが回転する、曲がる、という場合はやっぱり「上」があって「下」もありますからね。波の輪廻なんですね。

 

わたしたちの社会をみると、輪廻の社会をみると、性格の良い人間もいて、教えてあげればよくなる人間もいて、教えてあげてもダメだなぁという人間もいて、まったく悪人そのものの人間もいて、一時よい人間でいて、あとで突然悪い人間に変わる人もいるしね。その逆も、いろいろいるんですね。

 

分かりやすい言葉で言えば、環境、ですよ。

環境っていうのは、人間も環境でしょう。家族も環境でしょうしね。そこから影響を受けるんですね。自分の命と言うのは周りによって成り立つんですね。だからわれわれは、環境依存です。

 

わたしは「環境」という言葉を使いますけど、勘違いしないでください。

「自然界」というだけではないんですね。環境というのは、空気や住んでいる場所だけではなくてね、すべてまとめて、家族・友達・会社・国も、環境なんですね。世界でいろいろなことが起きると、それに合わせてわれわれも生き方を変えますからね。

 

生命のこころはいつでも環境に依存していて、環境によってよくなったり悪くなったり、いろいろしていますね。

 

そこでみえるのは、環境依存だったら、みんな同じようになるはずなんですね。

だって、みんなに対して環境は同じですから。

なぜそうならないのかというと、環境にどう対応するのかという自分の人格・性格というのは過去からついてくるんですね。

 

だから性格のよい家族のなかに生まれても、一人の子がものすごく悪い方向へ走ってしまうこともあります。その両方をまとめて、自分の性格と持って生まれた性格と、環境で生命が成り立っているんです。

 

ですからわたしたちが社会を見渡すと、結構いますよ、勉強になる人々が。われわれにとって役に立ってくれる方々っていうのはいます。

 

一般的にすごく性格がいいとか、頭がいいとか、すごく優しいこころの持ち主だとか、そういうふうな人間がいます。

 

だからお釈迦様が「できるだけそういう人を選んで付き合ってみてください」と。いわゆる環境を意図的に変えてください、ということなんですね。

善人と付き合いなさい、というのはそういう意味なんですね。自分が生まれた環境がよくないんだったら、意図的に自分が変える。そうすると楽によい人間になることができます。

(続きます

鋸の喩え - ブッダの教えを学ばなくてもよい人間になれるか?(2)

 

 関西月例冥想会 2016.09.17

https://www.youtube.com/watch?v=--FnQrWEhhQ を聞いて書きました。

Where There Is Love, There Is God: A Path to Closer Union with God and Greater Love for Others

参考外部サイト:

年末特別法話会での質疑応答 - Theravada Online ゴータミー精舎日記

Q:たとえば、「私の悩み苦しみがなくなりますように」というのは誓願ですか?

A:そうもいえますね。誓願は無数にありえる、日々あるものです。

誓願がしっかりしてないと、「今日の昼飯はそばを食べよう」と決めても、お店に入ると他のものを頼んでしまったりする。

釈尊は善悪をはっきりしなさいと仰いました。悪い誓願をしたら自分がつぶれます。誓願は必ず「善」のものでなくてはならない。誓願自体が善でなければいけない。表面的によさそうな誓願でも(解脱しよう、とか、社会福祉しよう、とか)、その裏に悪い感情(有名になってやろう、とか)が混じっていると途中でつぶれます。


 以前、マザーテレサの例を出しましたが、彼女は誓願がきれいだったから、成功したのです。他のカトリックの方もインドで福祉活動しているが、成功していないでしょう。また、赤十字にしても、敵味方かかわりなく助けよう、という誓願がキレイだったのです。だから母体になったキリスト教はがたがたになっても、赤十字は世界中に広がっています。
 誓願が純粋にキレイでなければいけません。それは法則から見たら決まっていることです。試験に合格したいとか、○○の会社に就職したいとか、そういう願いの場合は、「これは自分の能力を向上させる、上達させるためにそうするのだ」という気持ちでやることです。自分に克つのだと。他人とのライバル意識がなければ、成功する確率がすごく高くなります。
「私の悩み苦しみがなくなりますように」という言葉が誓願であれば、悩み苦しみがなくなります。おだやかな気持ちで、欲、見得、嫉妬で「私の悩み苦しみがなくなりますように」となると、言葉がただのオウム返しで機能しなくなる。

 

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