<前回 クマは悪者か - 悲観的にみる癖をどうするか?(6)>
そういうことで、ちょっと話がそれましたから、本題に戻って順番におさらいします。
だいたい人間っていうのは、ネガティブでみるほうがすごく多いんですよ。ポジティブにみる人はすごく少ないんですね。どちらでもたいしたことはないんですよ。脳にそういうループができているんですよ。
だから、ネガティブでみる人間はまず、ポジティブにみる訓練をする。
ネガティブでみるループが壊れちゃって、ポジティブでみるループが現れてくるんですね。
それから、初めはネガティブにみるループは全部壊さなくちゃいけない。
それからなんでも、ポジティブアプローチでみる。
そして、客観的にみて、そんな調子に乗っても、わたしたちの感情でうまくいかないから、ありのままにみながら、二番目の性格を作るんですね。
それができたところで、三番目の性格が現れてくるんです。
ネガティブでもポジティブでもみようとしない、いわゆる価値観を入れないということ。
これは人間の脳ではできない。不可能。
そこで、人間の次元を破らなくちゃいけない。破ると、ほんとうの、ありのままの姿が見えてくる。
だからその前に、俗世間的にありのままを見られなくてはダメなんですね。
俗世間的には、クマもいますし、キツネもいるかもしれませんよ。ハブもいるかもしれません。それなりにアプローチを自由自在に変える。
二番目の人は、ハブを見たところで怖くなっちゃって「ギャー!!」とは言わないんですね。
見たところで「別に」と。でも、いじめないほうがよろしい、ということで立派な状態になってくる。
そこでさらに世の中を観察してみると、生命であるとみえるんです。
生命ですよ。ハブも、犬も猫も、人間も、みんな生命なんです。
生命としてみると、ネガティブでもポジティブでもみられなくなっちゃいます。
それぞれの生命体は、それぞれに決まった生き方をしている。これは善でも悪でもないでしょう。
シロアリが皆様の家の柱を食っちゃったからと言って、シロアリが悪いことをやっている? 悪いことはやっていないです。シロアリという生命が、木を食べるんです。
仏教は真理を発見しました、というんですね。
真理とは、すべての現象は無常で無我であるということ。一切の現象は。自分も含めて。そのときが、アプローチが現れるんじゃなくて、アプローチが消えるんです。
感想が生まれるんじゃなくて、一切の感想が消えるんです。
自分ということも消えてしまいます。それで無限ということになってしまいます。これで安らぎが生まれてきます。
自分と他人がいる限りは、安らぎはないんです。
自分がいる場合は自分のアプローチがあって、他人がいる場合は他人のアプローチがあります。このアプローチを交わさなくてはいけないんですね。
波が生まれるんです。
生まれないわけじゃない。
猫を飼ったからといって、安らぎが生まれるわけではない。
猫には猫の生き方があります。人間には人間の生き方がある。それがぶつかるんです。
人間があほだから、猫に合わせるんですね、性格を。
それで幸せだと思っています。しかしそれは幸せじゃない。自由がなくなったんです。人間のレベルが、落ちただけです。
昇格するはずの人間が、進化するはずの人間が、ある程度で、退化しただけです。
この言っていることが本当かどうか、調べてみてください。犬を飼っている人々を。犬のために生きているんです。
それで、一切のアプローチが消えると、ほんとうの安穏、安らぎが生まれてくる。
これは壊れない。自分がいないんだから。他人もいないんだから。壊れる理由がないんです。
そこは皆さんの脳では理解できないセクションです。
それで十分でしょう? 順番で理解すれば。
(次回は最終回です
《スマナサーラ長老 東京法話と実践会 2016.10.30
http://www.ustream.tv/recorded/92526227 (期間限定公開)を聞いて書きました。》
第一回目を読む:
thierrybuddhist.hatenablog.com