《アラナ精舎カティナ衣法要「雨安居明け」お布施式 スマナサーラ長老法話》
お布施ってどういうことかというとね。
お布施することで神経科学的にどう影響がでるのかと研究している科学者たちは、最終的には、お釈迦様がおっしゃっている結論には来ているんですね。
いわゆる脳がすべてだと言っていて、日本でも昔は、脳がすべてだというスタンスでしたけどね。
それから、自分、自我というものは脳の中にどこにもありません、ということになった。それで「おかしい。脳がすべてだったのに」という段階まで進んだ。
最近の三年から五年あたりで、こころの存在を認めるようになったんです。
肉体があって脳細胞があって、それにこころもあるんだと。結局は、脳というのはお釈迦様がおっしゃった通りに、体を管理するだけだと。だから自分で脳に指令して、しっかりと管理するならばなんの問題もない。
今の状況はわれわれは脳によって支配されちゃっているけれど、脳にはそんな能力はないんです。
名前だけは「脳(のう)」だけど、そんな「能力(のうりょく)」はないんです(笑)。
そういうところまでいっていて、こころの問題まで話が行っていて、脳を管理する場合、こころの成長する場合はどうしましょうかというところで、結局お釈迦様のおっしゃったところに戻っているんですね。
わたしはそれをずーっと言っていたんだけどね、なんか無視されちゃったんです。
そいうことで、そこから、科学者が言っているところからさらに先を、わたしは言いますからね。
生命っていうのは、単細胞も生命だとみんな言っています。それは問題ありません。
生命はどうやってできているかというと、まず存在欲。自分が生きていきたいという。それから恐怖感。その二つで生きているんです。
そこでその二つがお互いに邪魔するんですね。
存在欲で生きたくなるんだけど、恐怖感でそれがうまくいかなくなって、ネガティブとポジティブの二つが働いてしまって、その総合結果で人生、というか命なんですね。
生きていきたいことだけ強くなっちゃうと、もう何にも構わず生きてみる。人間みたいに。
恐怖感が入ってくると、どんどん控えていっちゃうというね。それで精神的な問題と言うのは、この二つがバランスを取っていないときなんですね。
それは俗世間の話です。
仏教では、生きること自体がつまらないんだと。
だって存在欲と恐怖感で、ライバルで戦っていても、何のことはないでしょう。
ただ存在欲があっても、物事は変化するから生きているでしょう。
わたしたちは歳を取るから生きているんです。歳を取るとは、やがて死ぬことでしょう。だから存在欲も決して満たされない。
生きていきたいんだけど、恐怖感と怯えで不安で不安で、生きることもろくにできない。
それって意味があるのかと。
宗教は人間の欲を掻き立てるんですね。永遠な天国があると。
このお経をあげればものすごくご利益があるんだぞとかね。題目を唱えれば、まあ商売繁盛ときりがないぞ、というのは全部嘘です。神に祈れば何でも叶うぞ、というのも嘘です。ただ、題目を唱えると、あの恐怖感がいくらか減るんですね。「ああ、守られているんだ」と調子に乗る。これも「こころ」なんですよ。
自分のこころがなんとかカラクリで、ちょっと調子に乗ってもらって、いくらかうまくいくんです。
結局自分のこころなんです。
こころの不安感をちょっと減らしているんです。それで存在欲を掻き立てるんですね。
お釈迦様はさらに進んで、
「そんなものでは輪廻転生を繋げていくだけだ。終わりがないんだ。一時的に怖くないと思っても、それは一時的で、怖いものは怖いでしょう。歳を取るんだよ、認めなさい。病気になるんだよ。それをあなたは怖がっているんだよ」
と。
(続きます
参考外部サイト:
折々の法話1〜3 お布施について,お釈迦様は科学者です,人は遺体を運んでいる
(仏教が語る布施)
それで仏教では、どうしてもお布施をしなくてはならない場合を次のように説明しています。ある人々が在家の生活をやめる。商売をしたり仕事をすることもやめる。妻子を持つこともやめる。それらをやめて、心を清らかにすることだけにチャレンジをする。その人々は経済生活をやめたのだから住むところもない。食べる物もない。でもその人は単なる怠け者ではなく、人類に一番必要な仕事をしているんです。インド社会には昔からそういう出家の人々がいました。仏教の出家もそういう出家のひとつです。
……(略)……
仏教の出家は経済活動をしないのです。
経済活動が悪いということではなく、やはり貪瞋痴がなければ商売をする気は起きないのです。
ですから貪瞋痴を捨てる世界にはあわないのです。
そういうことで出家にお布施をすることは、仏教そのものを守ることになる。
その徳はものすごく高いのです。
そういう意味で、世界で初めてこの「布施」という概念が仏教の中でできたのです。