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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

支配者はこころ - 最善の選択(4)

脳と仏教 説法めも

《前回 世界を支配するもの - 最善の選択(3)

 

初期仏教というのはそういうことで、ほかの仏教ではこころにアクセスしようとするんだけど、ある側面しか観測しないんですね。現代の大学の科学研究と同じです。

 

科学って膨大なものですけど、一人の人間がその中から一つを選んで、その中でさらに細分化したテーマを一つ選んで、研究したり論文を書いたり博士になったりします。全体的に扱うということはないんです。

 

仏教では、唯識論を語る宗派もあります。

「すべてこころだけ」と。これは一つの側面だけで、だから彼らの説明はちょっとあいまいで中途半端で、議論がいっぱい出てくる。

「空論(くうろん)」を語る人々も、ある一面のみについて語っていて、一切が空(くう)というだけではちょっと……。細分化すると、全体的に役に立たなくなっちゃうんですね。

 

たとえば腎臓の専門家がいる。

その専門家が腎臓だけ必死で治療して治しても、一人の人にとっては、腎臓の治療中に心臓が発作を起こして死ぬということもあり得る。意味がないんですね、それは腎臓の専門医にとって。

 

眼科の専門医が眼の治療をして、その患者さんは眼には問題なくても糖尿病で死んじゃうかもしれないしね。

 

だから一つだけの分野でスペシャリストというのは、世間ではよくあります。

仏教でも起きちゃったんですね。スペシャリスト化が起きちゃって、全く役に立たないことになってしまったんです(笑)。

 

お釈迦様はスペシャリストですけど、すべてを把握して語られたんだから、これはもうなかなか、ふつうの人間にはできることではないんですね。

「ふつうの人間にはできない」という、それもこころの法則一つです。何かに引っかかって、それに困る。抜けられなくなる。物事を全体的にみられない、というのも、その能力をもっていないというこころの法則です。

 

悪く言えば何かに引っかかって抜けられない。

良く言えば、何かに集中してスペシャリストになる。言い方は違っても法則は同じです。何かにショックを受けちゃって、こころになにか焼き付いちゃって、これでどんどんダメになっていく。忘れられなくなる。PTSDみたいになる。抜けられなくなっちゃって破壊の道へ行く。

これもこころの法則なんです。

 

同じ法則を別に使えば、何かに集中してそこから抜けられなくなっちゃって、とことん研究して世界一にプロになる、ということもできる。

 

そこで、どんな生命にも、このこころの法則は同じです。

そういう感じでこころは科学できます。

そういうデータはいくらでもあります。

 

たとえば、ある人が有名な画家になる。

よくよく考えてみると、その人は小さいときから絵を描くことに夢中なんですね。ほかの事もやるんだけど、すぐ飽きちゃう。でも絵だけは喜んで描く。だから絵を描くことにこころが引っかかっているんですね。抜けられない。その結果、画家になってしまったんです。

 

一方で、あれもこれもやりたいという人がいるでしょう。

そのこころというのは、あちらこちらに飛んじゃうんですね。しかしその場合でも何かに引っかかっている。一年間くらい絵に凝っていたんだけど、絵はもう諦めちゃって、ゲームにいっちゃった。半年でそれも飽きて、自転車に……、こうなってくると何にもなってないね、最終的には。

 

それでもそれがこころの法則で、すべての生命に同じことです。

その場合でも、良い方に、悪い方に、という違いは成り立つ。いろんなことができる多才能の人もいる。でも一流じゃないんですね。それなりにできる。便利屋さんですね。

 

わたしも一回、二回、便利屋さんに仕事を頼んだことがあります。

やっぱり、いい加減。できないわけではないんだけど、「ああ、だめだな」と見えてくるんですね。何とかできる程度。それからは、少々のことでもプロに頼みます。料金は高くなりますけど、結果は抜群。文句ない。

 

便利屋さんに一万円でやってもらった仕事が、なんかガタガタ。

プロに四万円でやってもらったら、いつだってすごい、いい仕事をする。頼んだこちらも楽しいでしょう。だったら、それが「安い」んですよ。一万円の方が「高い」んです。

 

そういうことで、あれもできるこれもできる、という場合は、それなりの便利屋さんが現れますし、これが悪く行くと、どうにもならない悪い人間ができあがってしまうし。

 

このようにこころが、それ自体の法則があって、その中で活動している。

(続きます

こころは無明 - 最善の選択(5)

 

スマナサーラ長老法話 関西定例冥想会 2016.11.13

https://www.youtube.com/watch?v=FKgZ8djfv40&feature=youtu.be

を聞いて書きました》

 

参考過去記事:

六根の意門とは何か?(後編)

唯識(ゆいしき)、という大乗仏教の一般論があります。大乗仏教とは、もともと哲学的でしたし、徹底的にヒンドゥー教主義という二つの流れがあって、最初は哲学の世界で、中観派唯識派の二つなんですね。それから、力がなくなって絶えてしまったんです。それで信仰だけが残った。祈祷・儀式とか。そういうだらしないところだけが残って、哲学的なところが死んじゃったんです。

 

唯識の言っているところは、すべての現象の世界は、こころが作る幻覚だと。建物もわたしもあなたもすべて、わたしのこころが勝手に作る幻覚だと、それを本物だと思って、愛着や怯えやら恐怖感やら、を作る。たとえば、「あの人はかわいい」と思えば、こころが幻覚を作って、それに愛していると言うんですね。そういうふうに、こころの働きを説明するんです。それは、意門に限ってはそういう働きが確かにあります。

 

唯識論は正しくない、やりすぎだからね。そのやりすぎのところは潰れます。ですから、そこはやりすぎですけど、一部言っているところはその通りなんです。

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