質問
「仏教が言うところの、『幸せ』とは何ですか?」
回答(スマナサーラ長老)
仏教が言うところの、というより、科学的に「幸せは何ですか?」ということですよ。
別にあの人が言うことがわたしの幸せだ、というのはおかしいでしょう?
そういう科学的に、何が幸せかということです。
これはレベルに合わせてしゃべらなくてはいけません。
幸せにはランクがありまして、「お腹が空いているわたし」にとってはご飯を食べれば幸せでしょう。
「くたくたに疲れているわたし」にとっては、ちょっと寝ることが幸せでしょう?
部屋が冷えていると、暖房をつけることは幸せでしょう?
そういうふうにいろんな幸せがあるんですね。
その中から、普遍的な共通している法則を見つけてください。
たとえば、お腹が空いているときにご飯を食べることが幸せなら、朝から晩までご飯を食べたら、それは幸せではないでしょう。
「寝ることが幸せ」なら、ずーっと寝てください。これも幸せじゃないでしょう。
だから、その瞬間、その瞬間で、われわれは「これが幸せ」「あれが幸せ」と思っている。
走って電車に乗ったら、座るところがあったら幸せじゃない?
駅に着いたとたん、自分の目的地行の急行が来ている。幸せでしょう? 各駅停車に乗らなくて済みました。
そうやって見れば、幸せはたくさんあります。
ハチャメチャ無数に幸せはあるんです。
でも一時的なんですね。
電車の座席に座っていても、三十分くらい座っているとなんか退屈なんですね。
幸せは一時的なんですね。
共通している法則は、苦しみがあって、その苦しみがものの見事に消えたことです。
空腹という苦しみがあったんです。
物の見事にその苦しみが消えた。ご飯を食べたことで。
そういうことで、理論を作ってください。苦しみが消えることが、幸せなんです。
ほんの瞬間の苦しみを、消して、消していくと、どこまであるんでしょう。
また現れる、また現れる、苦しみが。
どこまで行っても終わりなく、幸せを、われわれは追っているんです。
終わりなく幸せを追い求めることは、「苦」でしょう?
いくらやっても終わらない。だったらそれも「苦」でしょう。
だから苦しみを、最終的に消すんです。
それが究極の幸福なんです。仏教では、解脱、涅槃というんですね。
安穏、やすらぎ、とも言います。しかし必ず「究極」という言葉を使わなくてはいけない。それが質問した方にはわからないでしょう。それは当然です。
それを「わかったつもり」にならないでください。
「お釈迦様がおっしゃった涅槃ってこんな程度の幸せだ」と。
なぜならば、たとえばトランプさんの今日の昼ご飯は、どれだけおいしい? 何を食べる? わからないでしょう。
つまり、わかる、というのは経験でしょう。
だから空腹を感じていない人に、ご飯の味はあまりわからないんですよ。
食べてみてもおいしくはないこともある。
そういうわけで、どれくらい苦しみを感じたことかに比例して、幸福を感じるんです。
だからわれわれは、「命はなんぞや?」とずーっと科学的に観察してみる。そうすると、なんでもかんでも、苦であると発見する。
一切は苦である、と。
一切は苦であると発見した人が、あの究極の幸福を「ほしいなぁ」とか思っちゃう。
すぐそこを経験する。
言葉遊びはいくらでもできますよ。
「何にも依存しない境地」とかね。でも依存して幸せを感じている人にとっては、「え?」ということになってしまう。
たとえば、音楽を聴いて楽しいと感じている人が、「音に依存するなよ」と言われると腹が立つでしょう。
マンガを見て小説を読んで喜んでいる人には、「妄想に依存するなよ」と言っちゃうと、怒られますよ。
そういうことで、言葉遊びで、「無執着なこころが幸福」「何にも頼らないこころが幸福のこころ」「完全たる自由を獲得したこころが幸せのこころ」と、いくらでも言えます。
でも、ひとつもわからないでしょう? 正直に言えば。
ですから、これを経験してください。
苦しみを経験する必要はないんです。「生きることは、なんだ?」と科学者らしく観察してみると、じわじわ、じわじわとわかってくる。わかる分、幸せになっていく。
物が与える幸せはすぐ消えます。
焼き肉が与えてくれる幸せは、すぐ消えますよ。すぐお腹いっぱいになっちゃうから。だんだん気持ち悪くなっちゃうんです。おなか一杯なのにまだ肉が残っている、とか。後片付けもしないでそのまま寝たくなっちゃうんです。
そういうことだから、物が出してくる幸せはすぐに飽きてしまう。
そこでわれわれは、より安定している究極の幸せを探している。科学的に。
宗教は、永遠の天国とか、楽園とか、ああいうのはくだらないんですね。夢物語です。依存でしょう。
楽園の話を延々としゃべるんだけど、キリスト教の世界でね、みんな一日でも長く生きたがるでしょう?
ローマ教皇も、神様のエージェントでしょう。神様が遣わした一人しかいないエージェントなんですけど、病気になったらサッサと病院へ行く。なんだこれはと。あなたは天国に行きたくないのか?と思っちゃいます(笑)。
だから、そういう楽園などは人間の神話物語で、科学的に物事をみなくてはダメです。
仏教の究極の幸福は解脱であって、永遠の天国に行くことじゃないんです。
阿弥陀さんの極楽道に行くことじゃないんです。あんなのは嘘です。あり得ないんです。
はい、こんな答えになります。
(終わり)
《スマナサーラ長老法話 関西定例冥想会 2016.11.13
https://www.youtube.com/watch?v=FKgZ8djfv40&feature=youtu.be
を聞いて書きました》
《お知らせ》
来月、「幸せに生きるとは?」というテーマでスマナサーラ長老の対談があるそうです。
#jtba イベント情報:慶應SDMヒューマンラボ公開講座 スマナサーラ長老×前野隆司教授対談「心とは何か?幸せに生きるとはどういうことか?」2017年1月18日(水)19:00~ 慶應義塾大学日吉キャンパス来往舎 詳細&申し込み→ https://t.co/0uBTO1PeMA
— 日本テーラワーダ仏教協会 (@jtba_info) 2016年12月6日
昨日ご紹介した 金積寺 ご住職がはてなブログに忘備録を書かれています。
ご住職は、三重県常足庵も兼務なさっているそうです。上記のブログ名はそちらからきているんですね。
があるそうなので、お近くの方は参禅されてみてはいかがでしょうか。
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