今からちょっと、あるセンテンスを並べていきます。
そこでクイズ! このセンテンスは何でしょうか??? どこで使われているものだと思いますか?
- 仏教の要諦は、様々な言葉で言い表されているが、すべて正しい
- 仏教徒はしっかりした原理を持ち、ただ一心に実践しなければならない
- いくつもの原理、要諦があっても、結局は一つの大きな原理
- 四聖諦に対する義務を知らなければ、法を成就する道はない
- 四聖諦は実践の体系を提案し、人間に人間界の心理を役立たせる法
- 仏教の原理は、「苦は見るべきもの」「楽は持つべきもの、感じるもの」
- 行為と心と慧の開発
- 三学を基礎に置き、総合的に人間を開発する
- 「善き生き方」とは「学ぶ生き方」
- 学の開始点には、生命が準備している道がある
- 学習を始めると、たちまち開発が始まる
- 人間の開発に最も重要なのは意業
- 意業を放棄すれば、真の成果は得られない
- 実践する法の意味は三学で測る
- 知足によって精進を目指す準備が完了する
- タイ人が四つの原理を守れば、危機に陥ることはない
- 仏法の真髄は解脱と自立と助け合いの生活
最後の方で、「タイ人」と出てきましたね。
このセンテンス、実は、ある本の 目次 です。
ということで、クイズの答えは「目次」でした。
さて、この目次がある本とは……
「テーラワーダ仏教の実践 ブッダが教える自己開発」ポー・オー・パユットー著、野中耕一訳
先日何の気なく、この本を読み返そうとページを開いたら、目次の文章だけで感銘を受けてしまった。(今さら?と自分でも思います)
すでに読んでいらっしゃる方も多いと思いますが、改めてここにご紹介しました。
せっかくなので少しだけ、本文を一部引用してみましょう。
プッタタート師は、仏教の要諦とみなすべきは「一切法は執持すべきではない」であると、もう一つの原理について述べられています。 (略)
一切法は間違いなく私たちの心のままにならないから、執持できないかもしれないのなら、執持すべきではないということです。プッタタート氏はこれを仏教の要諦とされました。
このように言われると、(四聖諦なのか、苦の生起と苦の滅尽なのか)どの原理を仏教の要諦とすればいいか迷ってしまいます。
私はどの原理でもよろしいと言わせていただきましょう。
しかし、この「どれでもよろしい」というのは、やはり適切な表現ではありませんね。
というのは、これでは、仏教徒はしっかり根をおろさないようで、なんでもいいやと、ぐらぐらしたり、ふらふらと動揺する人間になって、何の原理もないようで、わけがわからなくなってしまうのです。
この「どれでもよろしいと言うのは、すべてが同じ一つの原理である」ということです。このことをはっきりさせましょう。
(18p)
(注: 一切法とは、一切の現象界で、五蘊、十二処、十八界のこと。)
このあと本文では、八正道の説明に入っていきます。
ヴィッパッサナーについては、「第二章 自己開発」で自分を開発していく方法として言及されています。ただ、ヴィパッサナーのやり方を説明しているのではなく、なぜヴィパッサナーが必要かという理論が述べられています。
また、訳者のあとがきで面白い言及があったので、こちらも引用します。
仏法自体については、仏法を体系として学んでほしいと注文がある。
その一例として、「定」について、ただ「定」を求めて満足するのではなく、さらに「慧」の段階に進んで欲しい、と指摘されている。
これはタイ国内で一種のブームになっている「瞑想」にたいして、間接的に注文を出されているのであろう。
タイ社会では、あるいは、法を過程を通じて学んでいないのかもしれない、という表現でこれを示されている。 (239p)
上の法話は2004年にタイでおこなわれたそうです。
このあたりは、最近の日本の状況と照らし合わせてみても学ぶことがありそうですね。
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さおりさん、 MKMUさん、タロウさん、長田克樹さんにお答えをいただきました。どうもありがとうございます😊
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/04/28/050000
「(欠点と思われる性格は)短所じゃないんです。
その人その人に、新しい道を切り開くための宿題、というか、ポイントになっているんです。」など、勇気づけられますよね。
ところでこのシリーズ、実はアクセスが多いんですよ。
中でも、スマナサーラ長老の子供時代【性格は直せるか(3)】 と
お釈迦様が伝え残したアングリマーラ長老のパワー【性格は直せるか(5)最終回】 は特にです。
次に、
「寂しい(5)奴隷にしたい」http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/08/25/050000
「糸がついてなく人にやさしくしてあげると、人はそこですごく喜びを感じます。」
ううう~、ほんとですね。ときどき自分の手を見ると、「スパイダーマンか⁈」状態ですよ……これからこの言葉を持ち歩きます。
また、この「寂しい」をテーマにした法話は、日本で広く誤解されたままの「犀の経典」について大外科手術をしたすごい法話だと思います。
三つ目は、
「仏教を学ぶほど大きくなる悩み」
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2016/01/13/050000
「だいたい自分の弱みが、直せる順番で出てくる。」「新たな悩みが出てくるということは、いい道なんです。ぜんぜん間違っていないんです。」
これは励まされますよね。けっこう世間的にはあまり評価されないことをしているので(ヴィパッサナー、慈悲の冥想など)、なんか「これでいいのか?」と焦ることもありますけど、こういう法話に背中を押されます。
最後に、
「親の介護が辛くてしようがない」
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2016/08/28/040000
これを挙げた長田さんは、「読んでから他人への接し方がだいぶ変わったような気がします。」と……。
介護については、先月スマナサーラ長老の本がでましたね。上の法話は、この本のダイジェスト版と言ってもいいのではないかなと思います。
さおりさん、 MKMUさん、タロウさん、長田克樹さん、ありがとうございました( っ_ _)っ))
皆さまもどしどしお答えをお寄せください。よろしくお願い致します。