brūmi(ブルーミ)という言葉は、お釈迦様による「保障つきの言説」を意味すると、前回 のブログでご紹介しました。
さて、もう一つのbrūmi(ブルーミ)はどこにあるのでしょう?
1054.(PTS.1048)
‘‘Saṅkhāya lokasmi paroparāni [parovarāni (sī. syā.)], (puṇṇakāti bhagavā)
Yassiñjitaṃ natthi kuhiñci loke;
Santo vidhūmo anīgho nirāso, atāri so jātijaranti brūmī’’ti.
(師は答えた、
「世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、――かれは生と老衰とを乗り越えた、――と、わたしは説く。
これは、直前の偈でプンナカさんが、
「釈尊よ、あなたは宗教を全否定しました。
では、かれら宗教家が生老病死を乗り越えていないのなら、誰が生老病死を乗り越えたのですか?」
と尋ねたことに対する、お釈迦様の答えになります。
スマナサーラ長老の解説によると、
Saṅkhāya 観察しなさい、観なさい。祈るんじゃなくて、よく観察してくださいと。
lokasmi 世の中はどうなっているのかと。paroparāni ものごとの流れ(を観察しなさい)。この世あの世の存在をよく観察したところで、「こういうことか、これは」という落ち着きが生じる。
とことん調べると、落ち着くんです。
そこで「諦め」が生じる。
心の中でもうもうと燃えていた火事がきれいに消えるんです。煙が消える(vidhūmo)んです。
諦めがついたら、終わりでしょう?あの膨大な苦しみが。
Yassiñjitaṃ natthi kuhiñci loke世界に対して何の期待もありません。
いかなるものにも、こうなってほしい、こうなってほしくないという気持ちが消えたら。それじゃ生きていられないと反論があると思いますが、そうです。もう生きるということを超えているんです。われわれの価値観で悟りを判断できません。この悟りの境地を自分の心を比較してみてください。
(梛(@jtba_talk)/2017年01月20日 - Twilog より引用しました)
「世界に対して何の期待もありません」というのは、斜に構えて言っているのではないそうです。
悟りの世界の「期待がない」はそれ(暗く考えること)と正反対なのです。
期待がない人は、究極に光り輝く人なんです。
まとめると、 brūmī(ブルーミ)という言葉で、「わたし(釈尊)が責任を持って言いますが……」と高らかに宣言されていたのは次のようなことでした。
祈るのではなく、観察する- 世間に対して「こうなってほしい」「こうなってほしくない」とは一切思わない
- 期待することをまったくしない
このような人が、生老病死を乗り越えた人である、とわたし(釈尊)は断言します。
(追記:
箇条書きの言葉にするとさっぱりしていますね。
この経典で語られた阿羅漢についての詳しい解説は、スマナサーラ長老の経典解説動画 http://fb.me/7uqrrOT8g の後半部分をご覧いただけると幸いです。
阿羅漢が料理をできない理由など、解説を聴くとなるほどと思いました)
さて、スマナサーラ長老は解説の終わりの方で、
「今日の経典は、皆さまにあまり ″実践しなさい″ という希望は持っていません。
勉強してください、ということです。
こうやってください、とは言ってないでしょう、ずっと。
ただ経典を説明しただけです。」
とおっしゃっていました。
釈尊がこの経典で言明した究極の覚りの境地には、正直改めてビビりました。
「頑張っても自分には無理だ……」と落ち込む……その前に! ✋STOP
次回は、仏道実践の難しさにめげない方法について考えてみようと思います。