質問
「大乗仏教の空(くう)とは何でしょうか?」
回答
(スマナサーラ長老談)
空(くう)とは、知識でとらえられるものではないんですね。
大乗仏教にヒンドゥー教が入ったところで、「空って何だ?」とわからなくなってしまった。般若心経は全くの間違いです。
わたしが「おまえはバカだ」と言っているのは、般若心経を書いた人に対してです。般若心経を信仰している方々に対しては何も言っていません。被害者ですからね。
仏教を思想体系にするな、遊びではないのだから、とお釈迦様はおっしゃっていました。
龍樹はその禁止されていたことをやってしまった。だから遊びになってしまったのです。龍樹はその失敗に気づいたんだけど、直せなかったんです。
色即是空というのは正しいんです。お釈迦様がそうおっしゃっています。
しかし、空即是色は間違いです。
たとえば、「リンゴは果物です。果物はリンゴです」と言ったら間違いでしょう? 逆には言えないんですよ。
数式の「A=B、B=A」とは違います。
しかし龍樹は違わないと思ってしまったんですね。色=空だと思ってしまった。色は空です。空は色ではありません。
空と無を同じにしていますが、これも違います。
サンスクリット語では全く違うものです。
無は存在しない、なし、という意味です。空は、ゼロですから、存在しないということではないのです。
般若心経は虚無主義になって終わっています。それだけでもまだ足りない、般若心境を書いた本人にとっては。それから神秘主義になって終わってしまいます。だからハチャメチャです。
空というのは実践しないとわかりません。
「長い」という言葉があります。これは短いという言葉がないと成り立たない。だからあなたはどうやって「長い」を理解したんですかと。長い、という言葉を聞いたとたん、「うん、わかる」という気持ちがあるでしょう。それは成り立たない。なぜならば、あなたの頭の中に「短い」という概念が既にあったんですね。すでにあった概念に合わせて「長い」を理解したんです。だから、「長い」を理解していないんです。
そうやって、相対的に現象が成り立つんです。
相対的に成り立つということは、反対のものが必要なんですね。何か理解しようと思うと、どうしても反対のものが必要になっちゃう。
科学では、matterという言葉があって、antimatterという言葉も使っています。
Matterがなければantimatterも存在しない。Antimatterがなければmatterが存在しない。それならば一緒になってしまえばどうですか?とすると、言いようがなくなっちゃうんです。
そういうことでこれは物質的なことですが、こころもそのようなものなんです。
そこは思考を超えていることになる。
それは修行して達しなくてはならない。
龍樹の心配はそこなんですね。どう修行するのか?と。
龍樹自身の哲学から実践を提案することはできません。実践も相対性をもっていると、実践が成り立たなくなっちゃう。たとえば、「わたしは修行していますよ」というのは、「修行していない」という概念がないと成り立たない。
だから龍樹が「あー大失敗」とわかったそうで、でももう、後の祭りでした。
(東京 法話と実践会 2017.01.09 説法めもより)
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