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スマナサーラ長老 法話と実践会(ゴータミー精舎)動画: http://fb.me/VtsVf0I9
( 法話めもより)
仏教は、生きるとはどのようなことかと説明しているだけです。
そこに価値判断は入れません。
価値判断をするためには、何かに比較しなくてはいけません。
たとえば、生きることを否定するなら、何に比較して否定するんですかね? 輪廻転生もいきることでしょう? 転生しながら生きているんだからね。生きることを肯定する場合でも、何に比較して肯定するんですかね? これが悪くて、これが正しい、と。
だから、判断自体がおかしいんです。
われわれは判断する次元を超えなくてはいけません。だからと言って、何も判断しない中途半端なのはダメです。
「実際何が起きているのか」とわかった人は、判断しません。
たとえば、地球は自転しますね。その地球の自転を肯定する? 否定する? どちらもいらないでしょう。「ああ、地球は自転する」、それで終わり。自転することが、「悪いことだ、いいことだ、悪いことでもいいことでもどちらでもないんだ」という必要さえないでしょう。
だって、「わたし」という存在に、地球の自転は何の関係もないんだからね。
生きるということは、いろんな原因があって結果が出てくる。
この肉体組織のなかにも、複数の組織があってね。眼の組織、耳の組織、それぞれが勝手に展開しているんですね。だから、これが生きることだというのはないんです。無数の組織が、勝手に回転している。この六つの器官(眼耳鼻舌身意)が交差するところで、「わたし」とわれわれは言うんです。
でも、ただ交差するだけ。
たとえば、目で見たものについて意で考えたりする。そこで、手を伸ばしてそれを取ろうとする。そこで交差しますね。眼の感覚、手の感覚。それを「わたし」と言っても、存在しないものでしょう。
だから因果法則というのは、川の流れのように、地球の公転自転のように、まあ、流れるんですよ。そちらには、否定も肯定も何もないんです。
否定肯定が出てくるのは判断の場合です。
たとえば、われわれは生きることが素晴らしいと判断する。しかし、よくよくチェックしてください。苦しみがあって生きているのではないか、と。そういう事実を仏教では教えてあげているんですね。
生きることに、みなすごく執着している。
では、「何に」執着しているんですか? すべて無常で流れているでしょう。だから執着できんでしょう。できないことをやっているんだから、ハチャメチャあなたは苦労しているんだよ、と。
執着があるから輪廻転生するんです。
流れを放っておかない。止めたくはない。
だから、続けるんですよ。
「生きることは尊いもの、かけがえのないもの」と、そんなくだらないことをいっても、自分が苦しんで生きているのにね。
万々歳で何一つも問題ないと、思って生きたことがある? なんてすばらしいんですかと、実感して生きたことがある? ないでしょう。
たまたま試験に合格したとか、希望通りの会社に入れたとか、待ちに待っていた子供が生まれたとか、その瞬間で幸福を、刺激を感じますけど、それを繋げていく苦しみの量はどうですかね?
たとえば子供が生まれて幸せだと言える?
すべてまとめて総合的に評価しなくちゃいけない。子供に対する心配やら苦労やら、希望通りにいかないとき自分がどれほど悩んだのかとかね。そういうすべてを評価してみると、「え、何だこれ?」という答えになるんですよ。
たとえば若夫婦に初めて子供が生まれた時点で、すべての自由を失っちゃうんです。
今まで好きなことをやったり、夜遅くまで起きていたり、友だちと一日中しゃべったりしたこととか、すべてストップでしょう? 好き勝手な服を着たり、お化粧をしたり、テレビを観ながら携帯を見ながらやっていたくだらないことも、なかなかできなくなってしまう。だから、自分の人生はほとんど束縛されて、奴隷になったことが幸せですか?
だから、ちょっと言いづらいんですよ、これが幸せとは。何一つも。
希望通りのすごくいい会社に就職してみたら、仕事は難しい、ライバルは多い、なかなか昇格できない。
だからわれわれは、否定肯定するという足かせをやめて、淡々と生きてみましょう。その方がいいと思います。
相対的に答えることはできます。
たとえば、仏教は解脱に達しなさい、智慧を開発しなさいと言います。ということは、今われわれに智慧が無い状態ですね。それはダメだから、智慧を開発する。そういうふうに相対的にはいくらでも判断しています、仏教も。
輪廻転生するのは執着があるからだと。輪廻転生しても、苦しみの転生であると、否定的(ネガティブ)なことを言っていますね。それは、解脱という相対的でないことを教えているからなんです。
あの人がカッコいい、美しいなど、美人コンテストというものも世の中にあります。
そういうものは相対的に、主観で判断する。
生きている間、みな判断を繰り返ししています。
たとえば、「あの人に裏切られた」ということもあるでしょう。
それは、自分の判断にしがみついていたということですよ。判断自体、あいまいであてにならないものです。何か一つの出来事で、「この人は信頼できる」と判断しただけで、その人も人間だから生きる上でいろいろなことをやっています。その中で、「裏切られました」と言ってしまうだけの話です。
「この人は信頼できる」という自分の判断にしがみついていた人が、「裏切られた」と苦しむんですね。
あの人に苦しめられたわけじゃないんです。「あの人に裏切られた、そいつのせいでわたしは苦しんでいる」というのは違います。自分が、自分の判断にしがみついたから、苦しんでいるんです。
生きているうえで、誰だって判断する。判断したことでちょっと大変なことになることもあります。
そういうことを理解してください。
(終わり)
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