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Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

道場めぐりを終わらせるヒント。kathaṃkathiṃ(カタンカティン)とは?- スッタニパータ 彼岸道品 学生ドータカの問い3

さて今回は、2つ目のパワーワード「kathaṃkathiṃ(カタンカティン)」です。

 

1063(1069)でドータカさんは次のように、釈尊にお願いします。

 

「わたくしは、神々と人間との世界において何ものも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。釈迦族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」(中村元訳)

 

【これに対するスマナサーラ長老のお話】

ドータカさんが間違った質問をする。「わたしを救ってください」と。

それに対してお釈迦様がおっしゃった言葉は、「人を解脱させるということは、わたしには不可能です」

 

kathaṃkathiṃ(カタンカティン)とは、あいまい・中途半端という意味です。

世の中はいつでも、「ああではないか、こうではないか」という疑問ばっかり。

われわれは誰にだって「どうでしょうかね。これでいいのでしょうか?」という気持ちがあります。

 

冥想の世界で説明しましょう。

こちらでは、四念処経の観察する冥想しか教えていないんですね。しかし、仏教ではアーナパーナ冥想(呼吸瞑想)などが当然あります。不浄観の冥想とかいろいろあるんです。そうするとどこかで「アーナパーナ冥想をやっている」と聞くと、「あれ、こちらではやっていませんよ……。いいなあ」と思うけれども、自分はこちらの道場で修行しているから行かない。でも、悩みが残っちゃうんですね。自分がやっていない冥想が気になってしまう。

 

そういうのは人間のこころの働きかたです。

これは良い悪いじゃなくて、そんなもんなんです。

 

だからと言って、「あの道場の冥想方法もやってみる。この道場の冥想方法もやってみる。インドのどこかの冥想方法も……」と、インドには数えきれないくらいの冥想方法があるのに、全部できる? できないでしょう。

現実的に不可能。だから、あらゆる道場を訪ねて冥想方法を試してみるというのは、インプラクティカルというかね、ちょっとできないんです。

 

kathaṃkathiṃ(カタンカティン)という言葉で、そういうことをすべてまとめています。

精神のあいまいさです。

哲学的には「わたしはいるだろう。いないだろう。死後はあるだろう。ないだろう」と論を展開することはできますが、これは人間にある性格上の問題です。それからなかなか抜けられないんですね。それを抜ける方法を、お釈迦様はおっしゃっています。

 

ですから、偉大なる真理を知ることによって、あなたは自分自身で安定する境地になるんだと。

最上の真理というのは、「波である」と発見する。それだけ。

 

そうすると、道場の問題はないでしょう?

修行方法はなんぞやと聞く必要もないでしょう?

 

ヴィパッサナーというのは修行と言うんだけど、世間でいう「修行」という特別なことをやっているわけじゃない。

世間でいう修行と言うのは、日常生活を離れた特別なことです。あえて、日常生活に関係ないことでなければ修行にならない。たとえば滝行という修行があるんですね。これは日常生活を生きる上でまったく関係がない。それなら風呂に入ったほうがいいとわたしは思います。

 

世間でいう修行には「日常生活に関係ない」という特色があります。

そういう意味で、断食も修行です。世にある修行は、どんな宗教でも、「日常生活に役に立たない」というものです。

 

ブッダが覚りに達する修行として言っていることは、それらとすごく違います。

日常生活と関係がないことでもないし、だからと言って日常生活を応援することでもありません。

 

日常生活が完全たるものだったら、誰だって修行する必要はなくなります。

そのまま幸せでいればいいんだからね。でも、普通の生き方で全然うまくいかないでしょう。

 

仏教の気づき冥想というのは、「生きることはどんなことか」とチェックする。

生きることから離れると、それはできないでしょう。

 

断食行ではなく、食べることを観察するんです。

それは生きることの一つの場面なんですね。それをジーッと観ている。

役に立ちますよ。覚らなくても。

ヴィパッサナー冥想だけが、日常生活に役に立ちます。仕事でも役に立つ。生きる上でやっているどんな場面でも、これは役に立ちます。

 

それでは止まらないんですね。

生きることは何かと発見するんですね。

そうすると、道場めぐりはいらなくなっちゃうんです。

 

だから、カタンカティンという状況をなくすために、気づきを行う。

この経典では「気づきを行いなさい」ということです。

 

偉大なる真理をわかったら、解脱に達しているでしょう。その真理を理解することは、自分でやらなくちゃいけないんですね。

 

「わたしにわからせてください」と言ってもね、理解するのは本人だから。

そこでお釈迦様の大胆なところです。

「ムリ。できません」と。

ブッダ自身、仏教の開祖様でしょう。インドのたくさん宗教ある世界で、堂々と「あなたを助けることはできませんよ」と言っちゃうと、もう商売にならないでしょう。たとえば、「皆の者よ、わたしのところに来なさい。救ってあげますよ」と、キリスト教では派手な宣伝文句があるでしょう。

 

仏教が宗教でないところの一つはそこなんです。

「これは理解することだ。理解するのは自分でやらなくてはいけない」と。

 

カタンカティンというのは日本語ではこちらに「疑惑者」と訳しています。

その意味は、われわれが精神的に持っているあの悩みです。

「どうでしょうかね……?」という。ごく普通の精神状態です。

 

しかしこれが無くなるんですよ。気づきの冥想で。

するとものすごく、生きることは安定します。その瞬間、その瞬間で、十分楽しく生きられます。

 

カタンカティンの解説終わり。次は最後3つ目の言葉、sato caraṃ (サトーチャラン)です)

 

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