ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

智慧とは、どういうものでしょうか?

質問

「智慧とは、どういうものでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老談)

 

そのときどきで、「”こうすればいい、ああすればいい”とわかることが智慧ではないのか」という質問の趣旨でしょう?

それには、智慧とは別に、われわれは別な単語を使っています。

日本語で言いづらい言葉ですが……。

 

智慧とは、仏道の実践をすることによって現れる能力なんです。

しかし、あなたが言った「状況に応じてやるべきことがわかる」というのは、仏道を歩まない人に必要なことです。

 

お釈迦様は、その場その場で、何をやればいいかとひらめく。

その場合は、パーリ語でヴィチャッカナ(vicakkhaṇa)です。状況がはっきりして、「こうすればいい」とわかることです。

普通みんな、多かれ少なかれその能力はあります。あった方が素晴らしい。

 

たとえば、各分野でプロと呼ばれる人がいますね。プロってなんですかね?

プロとは、「問題はこう解決するんだよ」とすぐわかる人のことです。

車に問題があったら修理屋さんに連れていきますね。プロの修理屋さんは、冷静に対処法を見て判断する。わたしたちが見ても、よくわかりませんね。

 

問題は何? どうすればいい? ということに答えられる人がプロなんです。

トラブったときにすぐ解決策を見つけられるのがプロですね。

しかし、それが智慧というわけではないんです。

 

智慧のある人にも、もちろん、いくらでもその能力はあります。

 

次のセクションを説明すると、「智慧とは何ぞや」と話さなくてはいけなくなっちゃうんです。それはちょっと今は困りますね。

 

いろんな定義がありますが、(わたしは)その時々のテーマを使います。

  

智慧と知識を区別しましょう。

世界の人間にあるのは「知識」です。

知識とは、「わたし」という仏教用語で言うと「幻覚」に、やられて物事を知る。

 

「花がきれい」というのも真理ではなく、「わたしが、きれいと思った」なんです。

「このご飯がおいしい」というのを正しく言うと、「わたしに、このご飯がおいしい」です。そこをわれわれは忘れてしまって、「このご飯はおいしいですよ、食べて、食べて!」と人に勧める。すると相手が「これはちょっと味が薄いね」と言うなら、こちらは落ち込んでしまう。

たとえば、女友達と一緒にいるときに、ほかの女性のことを褒める。「あの子はかわいいね」と。殴られます。やってみてください(笑)。そんな世界なんですよ。

 

そういうわけで、わたしが知っている世界は「わたしが」知っている世界で、客観的にみんなが知っている世界ではないんです。

 

この檻から逃げられますか? というと、逃げられません。

というのは、わたしは眼で見て知らなければいけない。耳で聞いて知らなければいけない。自分の鼻で嗅いで、自分の舌で味わって、自分の肉体で感じて、知らなければいけない。自分の頭で考えて知らなければいけない。だから、何を知るとしても、こちらの条件によって別世界を作ってしまいます。

 

別の例を出します。

たとえば、物理学の授業がある。生徒たちは同年代で同じくらいの能力です。授業はみんな均等にやっています。実験があるならばみんなにやらせています。それでも理解には生徒によって差が出てくる。仕方がありません。生徒たちのそれぞれの五根で知る世界だからです。

 

今も皆さんは同じ話を聞いていますが、おのおのの世界を介して聞いている。

わたしが思っていることを理解してはいません。

 

だから、一輪の花を見て、それぞれの人が「きれいな花ですね」と言いますが、その人たちがどんな気持ちになったのかとお互いに知る方法はありません。

科学も同じことで、人間が、自分の知り得る世界で発見したことを発表しているんです。

それは知識世界です。

 

知識世界にいる限り、事実・真理は、知り得ません。

 

そこで仏教の提案は、「わたし」という幻覚、ケモノ、物の怪を、捨ててください、ということです。

 

捨てたらどうなるのか?

そのとき、知る世界が、智慧なんです。

 

俗世間の知識世界とはものすごく違います。

もっと大胆に言うと、知識はすべて間違っています。主観ですから。相対的だから。

「自分」がいる限り、その相対的から外れることはできません。だから、自分とは錯覚・幻覚であると発見する。それが智慧です。

 

たとえば、「この花がきれい」と自分で判断するのではなくて、判断に至った何か原因があるんですね、それをチェックするんです。

そうすると、智慧の世界で判断にはなりません。「判断をしない」という、そんな低次元ではありません。

 

「きれいな花があるんだ」というのは俗世間です。仏道では、目に何か触れている。触れていることを感じている。感じて、それで視覚が生まれた。それもすぐ変わります。それだけ。だから判断できなくなっちゃう。

 

そこで別の人が聞く。

「この花きれいでしょう?」「世の中では、きれいと言いますね」というふうに「世の中では」という形容詞を入れる。「世の中ではそういうふうに言いますよ」と。

 

「あなたにとっては、この花はどうですか?」と聞かれるなら、「わたしって何?」と聞き返すんです。

眼で見るものだからね。眼はわたしではありませんし、眼の感覚もわたしではありません。「わたしはいないですよ」と言う答えになります。

 

智慧に達するために、「知る」というファンクションを使います。

「知る」とは生きることです。このマイクは生きていません。マイクは何を知ることはしません。わたしたちの身体は物体ですけど、「知る」ということをするんです。身体に触れると「知る」。眼で知る、耳で知る。知ると言う機能があるから、命なんです。

 

そこで、わたしというバケモノを措いておいて、一旦、「あなた、働かないでください」と言っておいて、「知る」ことをするんです。

どんどん知って、知って、このバケモノが成り立たないとわかったら、もう終わり。

 

それが智慧なんです。

智慧の世界では概念はありません。智慧の人には、世間様の立場からみればどうなのかとよくわかります。だから人がケンカするなら「あなた方はこうすればいいんじゃない」と言えます。誰よりも的確に。

でも世間で自分を売り込むためじゃなくて、聞いてくる人がいたら答えるんであって、「自分にすごく智慧があるから、世の中のことを聞いてください」という気持ちはありません。

 

智慧とは、わたしというバケモノを措いておいて知る世界です。

そこは冥想訓練でやらなくてはいけません。

 

修行とは、「わたし」という幻覚なくどう知るのか、という実験です。

やり方は午後に説明します。

(終わり)

(筆者注:当日は午後に冥想初心者指導がありました。この初心者指導の日程は、日本テーラワーダ仏教協会のGoogleカレンダー をご覧ください。)

 

「智慧の扉」は協会機関誌「パティパダー」の連載記事タイトルと同じですね。

こちら↓が、パティパダーの智慧の扉です。