ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

あなたは自己紹介ができますか?

東京法話と実践会 スマナサーラ長老 2018年6月10日 

 1:00:00〜より聞いて書きました。

皆様に自己紹介できますか?

できる?

 

ちょっと誰かやってみる?

どなたか活発な方、誰でもいいんです。ポランティアで自己紹介する。

 

参加者「はい。K.Yと申します」

長老「それは親がつけた名前でしょう? 世界はあなたをそのラベルで知っていると言うだけで、でも自分じゃないね」

参加者「今、大学に通っています。法律を勉強しています」

長老「それはあなたが何をやっているのかと言うことで、自分じゃないでしょう」

参加者「えーと、じゃあ、男です」

長老「それは性別で、男はたくさんいるんだからね。あなた一人が男だったらそれでもいいんだけどね」

参加者「男の中の一人です」

長老「そうすると、あなたの自己紹介じゃないでしょう。男の中の一人を連れて来て、と言ってもあなたを連れてこれないでしょう」

参加者「……」

長老「頑張って、頑張って」

参加者「今、この建物のこの場所に座っているのがわたしです」

長老「と言うことは、あなたが他の場所に座ったらあなたじゃなくなっちゃうね」

参加者「わたしは、過去の一時点で生まれた存在です」

長老「その人は今いないでしょう。生まれたのは赤ちゃんでしょう」

参加者「そうですね……」

長老「はい、いいです。よく頑張りました」

 

そこで、あなたが達する結論はなんですか?

わたしの質問はなんでしたっけ? 「自己紹介してください」でした。

それで答えはどうなったの?

「自己紹介できなかった」

自己紹介できない、なんです。それが理性的な答えなんです。

 

わたしたちは自分のことを知っているつもりですけど、全部世間のことを言っているんですね。自己紹介すらできないんです。ですからわたしたちは、自己紹介するために他人に頼っているんです。

例えば名前を言ったでしょう。名前というのは、あなたが知らない時、知らない人が紙に書いて登録したものです。ただ首に名札をつけただけ。

もし人にしっかり名前があるならば、事故にあった死体をみるだけで「これは○○さん」と分かるはずでしょう。

 

わたしは誰、ということなんですね。

あなたが自己紹介で言ったものは、すべて世間から被せられたものなんです。何かを被せられたら、それが自分というわけではないでしょう。獅子舞を被されたら、それがあなたではないでしょう。

名前も被り物ですよ。他人が、世界が被せたもの。世界があなたに名前をつけて、世界があなたを操っています。あなたにその名前がある限り、自由はありません。

 

そういうことで、いっぱい被り物がある。自己紹介してくださいというと、わたしは学生です、教師です、医者です、とか言っているのはすべて、被り物です。

その被り物によって自由がなくなるんです。女性の方は「わたしは母です」と言っちゃうでしょう。母というのは被り物です。それから自由じゃないんですね。父ですというと、被り物で、自由がなくなります。

 

わたしは大学生というと、自由がないんですね。大学側が一年目はこれをやる、2年目は、と縛る。

「わたし、わたし」というものは世間が被せたものです。それを「わたし、わたし」と言っているんだけど、かわいそうでしょう。だってそれでひどい目にあっているんだから。わたしは弁護士だというと、弁護士という被り物を世間が被せてくれる。世間が決めるんです。その条件に自分が適応しているならば、それを被る。弁護士として世間が決めた決まりに合わせて、生活しなくちゃいけない。

 

例えば、殺人事件が起きる。警察はいくつかの疑いがあって一人の人を逮捕する。その人は逮捕されて弁護士を頼む。弁護士にほんとうのことをいう。「実は自分が殺したんだけど、なんとか助けてください」その弁護士はそれを警察に言う? 「実は自分の依頼人は人を殺しました」と。それを言ったら弁護士失格です。でも一般人なら? 言わなければいけない。

これが被り物の世界です。

いろんな被り物を被って我々は生きている。

 

「わたし、わたし」と言っても、世間に踊らされてるだけ。わたしたちは出家だから、お釈迦様が作った決まりがある。それに踊らされている。

 

世間が被せておいて、被せられた人がその演技に失敗したら処分する。

例えば、世間が母親という被り物を被せる。母親は子供を育てないと、母親という演技をしないと、世間が裁く。世間は裁くだけで、その子供を育てようとはしないでしょう。それが、皆様がありがたがっている世間の姿なんです。理性でみてください。先入観で、被された思考で考えないでください。

 

どれほど我々一人一人が、被害者になっているのか。

 

例え見事な母親を演じても、結局は処分されます。

子供が大きくなれば、母親のあなたは関係ない、かえってうるさいんだから放っておいてくださいと。結局は子供にすら処分されます。

 

一応医者というものを被っちゃったら、弁護士と、学生というものを被ったら、一応正しく演技しなくちゃいけない。社会というのは、ものすごい桁違いなことをやらないと褒めてくれない。しかもほんのちょっと間違ったら、終わり。

若いスポーツ選手を、世間は持ち上げる。しかしほんのちょっと失敗すると、裁いて放り出す。

オリンピックの選手も、調子が良い時は「わーすごい!」と騒ぐ。しかし酒を飲んで羽目をはずすと、「自分の金メダルに調子に乗って!」と社会から放り出す。それが世界です。

 

世界に踊らされることはやめてください。しかし、自分の演技は「まあいいや、やってあげる」というふうにやってください。「これを勉強しなさい」「いいよ、やってあげます」と。

踊らされるなら、文句あるのかというくらいしっかりとやる。それでも社会から避難や侮辱をいくらでも受けます。

社会と言っても、結局は人間の集まりでしょう。

 

いくら被り物をうまく演じても、結局は社会から捨てられます。残酷なシステムです。それがどうやって成り立っているのかというと、同じく被害者の集まりなんです。これはすごく、変というか面白いというか。

皆様が社会を恨んでも、そちらには誰もいません。自己紹介と同じになっちゃうんです。

 

悲しいことは、完璧に演技をやっても、処分されます。

例えば、会社でケチをつけられないほどしっかり仕事をする。ほとんどの人が頼りにする。しかし、65歳になると追い出しますね。退職金を持って出て行ってください、もう二度と来るなよと。

ですから、皆様は処分が決まっている人間なんですよ。廃棄処分だけは決定しています。その日までいろんな演技をやらせているんです。

 

面白いことは、自分たちを廃棄処分する人間も、必ず処分されます。

 

こういう社会システムに対する我々の執着はやめましょう。神経質になるのはやめましょう。自由になってください。我々のパート、演技、それはやる。それはやって、自由になってください。

 

すごく優秀なプロの俳優や女優は、自分の出番になったら周りの人々が化粧させる、被せる。そこでスタートと言われた途端、自分のパートは完璧にやる。泣く、叫ぶ、怒る。ストップと言われたら、途端にやめる。「喉が渇いたから何かない?」とすぐに切り替わる。役に乗ってしまうと下手ですよ。

 

そういうことで、社会に対してわたしたちの感情的な気持ちは捨ててください。大変だ、どうしよう、批判されたらどうしよう、という気持ちはなんの意味もない。そういう精神的な病気はやめてください、直ちに。あなたはただ踊らされているだけ。

あなたというのは何者でもない、ただ衣装を被せられて、猿みたいに踊らされているだけ。それに乗るなよと。

 

課長という衣装を被せられたら、それをやるしかない。社会が被せるものを決めます。合っている時も、そうでない時もある。

 

わたしたちは心を自由にする。被せられたものは演技だけする。それは自分を守る方法です。いつでも心は自由です。

 

さらにあります。

被り物の話はそれだけでは終わりません。

 

わたしたちは被り物をとってみます。自分の名前を、外してみる。シミュレーションでやってください。皆様の名前は消えた。どうなる?

名前が消えた自分は何者ですか?

 

最後に残るのが名前の被り物です。

赤ちゃんの時から被っているんだから。

 

自分の名前がなくなったら、何が残る?

名前のない自分をどうやって紹介する? 学生でも会社員でもない。もう全部外しているんです。

わたしの質問は簡単です。「あなたは何者?」

 

理性を使って考えてください。

人間ですね。

細かく分けると、男か女。その被り物も捨てる。何故ならば、男の被り物をしたら男を演じなくてはいけない。女を演じなくてはいけない。その被り物を外す。外したら、人間というところに来る。他の生命も気になる。これは犬、これは猫、これはネズミ、わたしは人間。そうやって差別する。そこで最後に、人間という被り物も外してしまう。犬というものも被り物ですよ。犬という肉体を被ったら、犬を演じなくてはいけない。犬が自分の役割を間違えて、食卓に座って食べたくなると、いくら飼い主でも追い払うでしょう。「お前は床で缶に入れたご飯を食べなさい」と。食卓の椅子に足をかける犬の様子が可愛くて、許してあげることもありますけどね。

 

犬という肉体を被ったら、犬を演じなくてはいけない。猫という肉体を被ったら、猫を演じなくてはいけな。そこで自由がなくなるんです。人間という肉体を被ったら、そこで自由がなくなる。人間を演じなくてはいけない。肉体は人間という衣装なのに、ベロを使って水を飲んじゃうと、これは間違っている演技なんです。あるいは犬と一緒に、自分のご飯を皿に入れて手を使わずに口で食べる。アウトですね。被せた衣装で演じなくてはいけない。

 

そこから我々には、差別意識が生まれる。

違う役柄をやっているんだから。感情的になってしまうんですね。そこで煩悩が生まれてこころが汚れる。煩悩が生まれたということは、なおさら自由がなくなって、もう一本鎖が増えたことになる。

 

煩悩というのは自由を更に無くして、繋げる鎖ですね。

差別ということから、キツくなります。差別したということは、怒り憎しみ、傲慢の鎖ができたということなんです。差別意識を無くすのはすごく難しいんですよ。

 

人間の被り物で、煩悩が生まれる。犬を見て区別して、それから差別に行っちゃう。

 

地球が被せてくれた肉体を外しましょう。犬でも猫の肉体でも、これは土だからね。地球の場合は、これを返してもらうんです。自分のものにすることは許していないんです。肉体は必ず地球が返してもらうんです。悪徳借金取りみたいです。返せ、返せ、と。わたしたちは返したくなくて逃げ回らなければならない。人間の肉体を持って生きることは苦しくなってくるんですよ。座っていると足が痛いでしょう。お尻が痛いでしょう。

 

地球は肉体を返してくれと言っているんです。

なんで年をとると体が弱くなる? これは肉体を分解しようとしているんですよ。

 

人間という被り物を外して見たら、そこにあるのはただの生き物。猫も生き物、犬も生き物。そこには性別もない。みんな生き物。仏教はそこから説法しているから、皆様に理解できないのはしようがないんです。仏教が使う生き物という意味の言葉は、「衆生、有情」です。

 

自己紹介で「生き物です」と答えたら、ある程度で正しい答えになります。

区別できるものは何もないんだと。

要するに自分という特別な存在は無くなっちゃうんです。生き物です。

 

空気に自己紹介できないでしょう。空気は空気です。どこにでもある空気も、空気です。

 

そういう風に、被り物を全て外したらどんどん自由になりますよ。ただの生命。そこから仏教が始まります。

 

なんでただの生命ということになっているのか? なんで、ここに自分がいるということになっているのか?

 

地球の土だと言っても、どこかで地球に体をあげたくないんですね。地球から借りている土なのに、返したくはないんです。

 

生き物の初めは単細胞でしょう。地球のものです。お腹の中で、母親の体から土を取り込んで大きくなるんです。それに対して、地球の取り戻そうというエネルギーも強烈になります。赤ちゃんの時は楽に生きられます。もう少し大きくなるとちょっと苦しみが増えちゃうんです。若者になると更に苦しみが増える。それからわたしたちの年齢になると、座ることすら苦しくなるんです。やっと苦労して座ったんだけど、立てなくなっちゃうんです。子供とは違うんですね。

 

食べることは、土を入れる以外なんでもないんです。

 

そこで、違う働きが見えてきます。

なんで地球に肉体を返したくはないんですかね? 変でしょう。

借りているものを返したくないというと、まずいでしょう。

 

そこで、土の中に何かエネルギーが働いていることが見えてくるはずです。

貸してちょうだい、というためにはエネルギーが必要でしょう。でなきゃ貸してくれませんから。地球の土も、貸してあげなくてはいけないことになっていたんです。ただ単に「お金ちょうだい」と言っても、誰もあげないでしょう。銀行で、「ちょっと百万円くらい、ください」と言っても、くれる? ではなくて、百万円を借りる時は、それなりに準備を持っていくんですよ。担保になる土地、定期的に入る収入、そういう証明書があれば、銀行が「だったら貸しましょう」という取引が成り立ちます。

 

どこかで、買う能力、この場合はレンタルパワーが働いています。

地球から土を借りる時は、自分が持っているパワーに合わせて借りています。だからそれぞれの体が違うでしょう。みんな同じじゃないね。体力がある人ない人、大柄な人小柄な人、背が高い人低い人、いろいろ。何から何まで違うんですね。それは仮に「あなた」というシステムの取引能力に合わせたものです。

 

他人を見て「なんてかっこいい人でしょう。自分もそうなりたい」と時々思うかもしれませんが、そうなりません。有名な女優さん、俳優さんのポスターを飾って、自分もそうなりたいと願うかもしれませんが、なりませんよ。髪型や衣装、その程度のものです、真似できるのは。

 

取引能力によって、地球から土を借りられます。取引能力は仏教用語で「業」というんですよ、いたって単純な言葉で。業っていうのはそういうことです。

 

ですから、視力が悪いからと言って悩む必要はないんです。耳が聞こえにくいのも、聴覚はありますが、土を通して聞かなくてはいけないので、その土が壊れつつあるんですね。地球に引っ張られて、引っ張られて、一部の力が取られている。そうなってくると、わたしたちは一部の波長が聞こえなくなってくる。返す時期になったということです。時間切れ。わたしが使う単語は、「使用期限が切れている」。自分の体にいつでも思うのは、使用期限がギリギリだ、そろそろ処分しなくちゃいけないと。処分するんじゃなくて、処分になるぞと。

 

わたしたちは地球から土を借りて、返さないで逃げ回っている。

 

こころはすごいエネルギーを持っていて、自然界にないものを作ったりする。

そこで、こころはどのように回転するのかというと、ここで肉体に話が戻ってきます。肉体に認識できるチャンネルがあるんですね。眼耳鼻舌身意からデータを認識します。その認識から捏造していろんなことを組み立てて、自分という世界を作ります。そこで自分がいると勘違いするんです。これは認識のせいです。認識があっても、認識はずっと変わる。合成する概念も変わる。外に出たら別の認識になる。レストランに行ったら別の認識になる。だから固定した自分はどこにもないんです。その都度その都度、演じるだけ。そこで、この五感から情報が入って、自分勝手にこれを捏造して、自分だと思っているんです。自分だと思っているものも、すごい瞬間で変化するんです。何かを見ただけでも、自分が変わっています。見たものによっても変わって行くんです。どれほど合成するのかとわかるためには、映画でもビデオでもいいんだけど、すごい恐怖映画がありますね、ゾンビの映画とかエイリアンの映画とか、そういうのを観てみて。恐くなりますね。

 

バイオレンス映画を見ていると、わたしたちの気持ちに、「潰せ、潰せ、殺せ、殺せ」という怒りが出てくる。あるいはエイリアンの映画で人が襲われると、きゃーっと怖くなるんですね。

そこにはエイリアンはいない。あるのは、目に見えるデータと音声だけでしょう。音の波長と目に入る怒りの波長をこころの中に入れて、自分の世界を作るんです。だからみんなの怖がり方は様々です。人によっては画面を見ずに目を閉じたまま、「あー怖い!」と。データも入れずに自分の妄想の世界で、恐怖世界を作るんです。

 

わたしたちが自分というのは、そうやって妄想して捏造したもので、それも瞬間瞬間変わる。

 

だから自分が恐怖映画を見ているときは別な自分。残酷に人を殺したがっている自分。ミステリー映画を見ると、また別の自分。もう残酷じゃないんです、そのときは。自分とは瞬間で変わるもので錯覚でしょう。我々が一番執着してひどい目にあっているのは、一秒間で何万回も変わる自分に、です。だから執着は本当は不可能なんです。

 

これで話は終わりです。

 

今教えたのは、なんで執着するのか、そこからどうやって自由になるのか、どんな順番で自由になるのか、と。自分というのは錯覚だと発見して、自分という気持ちがある限り、自由がなくて操られる。操られて悩み苦しみしか生まれませんよと発見したところで、本物の自由が現れるんですね。だからブッダの冥想というのは精密に科学的な冥想で、しっかりした思考で、ひとかけらも乗せられた思考はないんです。全て理性で客観的に考えて語られているんです。

 

頑張って、解脱に達するように。これしか自由がないんです。頑張ってみてください。どうもありがとうございます。

(終わり)

 

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