ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

「わたしという実感」でしょうか、あるいは単に「実感」でしょうか?

東京 法話と実践会 スマナサーラ長老 2018年11月23日

動画

https://www.facebook.com/jtheravada/videos/368432943898539/

法話メモ

https://twitter.com/jtba_talk/status/1065775981963567104

 

 

 一般的な質問なんですけど、わたしとは誰ですか、というね。

わたしのことを知りたいということですね。

仏教ではわたしという実態はないと言っていますが、ないと言っても、なんか自分がいるんじゃないかなと、実感がある。

それで、実感ということがありますけど、それは「わたし」ではありません。実感だけがある。わたし、という実感ではない。単純に実感なんです。感じることです。

これにわざわざ主語を入れているだけなんです。主語を入れたのは、おそらく言語のせいでしょうね。言葉というのは、主語がないと成り立たないという。

 

実感というものがある。それだけです。

わたしには実感がある、と言っちゃうとまずいですね。英語だと、I feel じゃなくて、There is feelingなんです。英語で雨が降るという場合は、It is raining というでしょう。It isが必要になります。rainingだけでは、なんかちょっと分からなくなってしまう。There is feeling ならいいんだけど、I am feeling というのはおかしい、というのが仏教の立場なんです。

それは実験できますね。冥想というのはそういう実験です。宗教的な儀式ではないんです。それをよく覚えてください。実験なんです。

実験しているんだという気持ちで冥想すると、冥想もうまく進みます。

 

冥想を実践する人々が、99パーセント失敗するのは、こういう単純なポイントが心の中に入らないんですね。

いたって単純ですが、難しくして分からないようにして喋ると、すごく聞いてくれますけどね。用語、単語、チャート、データ、文献を参考にしながら喋ると、よく聞いてくれます。しかし、何も理解しないんですね、結局は。

シンプルに真理を教えると、聞いてくれない。

最初の方法なら、聞いてくれるけれど理解はしない。二番目の方法は、こんなシンプルな方法を我々エリートに対して言うなんてバカにしているんですか、と聞いてくれない。どちらにしても結果はゼロです。理解しないと言うことです。

 

これは、人生最大の実験なんですね。

何を実験するのかと言うと、今言った言葉です。「わたしと言う実感」でしょうか、あるいはただ単に「実感」でしょうか。今日はこれを調べてください。

 

実験の仕方は、今日の午後(実践会)で説明します。

まずはポイントを覚えてください。

I am feeling, or Just there is feeling.と言うポイントなんです。

これは仮説にしておきます。わたしが言ったからと言って、それに乗る必要はありません。

わたしに実感があるのか、ただ単に、実感があるのか。

主語がいるかいらないかと言うことなんです。

 

わたしたちの頭の中で、主語に凝り固まることがなくなったら、それで自由になっているはずです。

面白い世界が現れますよ。主語が消えたら。

 

わたしと言うものはハチャメチャたくさんいるんです。

ハチャメチャたくさんいるのに、一般の人たちは、一個の固定したもの、絶対変化しないわたしと言う一個の塊があると思っているんです。インド哲学では、そこを強烈に言うんですね。絶対的でまるっきり変わらない、壊すことは一切不可能な自分がいるんだと。それを探しなさいと。見つかることをヒンドゥー教では「梵我一如」と言います。なぜそういうかというと、魂の親分を「梵(ぼん)」というんですね。ブラフマーです。他宗教の神というとほとんど男性ですが、ブラフマーは中性です。ブラフマンという神もいて、これは男性名詞です。ヒンドゥー教は今は神話の神々を信仰することになってしまって、ブラフマーを信仰しないんですね。ヒンドゥー教では神々にも任期があるみたいですね。政府と同じです。ヒンドゥー教の神々は時期が来ると変わっちゃうんです。現代ヒンドゥー教では、ラーマが神になっています。一般の人々は、シヴァという神を信仰しています。脇役で商売繁盛するために、ガネーシャを信仰しています。

そういう実験は科学的ではありません。最初からこれは絶対的な真理だ、あなたには何も変わらない、焼いても切っても変化しない絶対的な自分がいると、それを探しなさい、というのは。それがわからないのは、マーヤという幻想だと、ヒンドゥー教ではいうんです。

 

それは、最初から前提があって、前提が正しいと決めつけているのは科学的ではありません。

魂という親分がいるんだと、魂の親分と一緒になるために頑張りますと、目的を設定しておくのはちょっと非科学的です。

仏教の場合は、魂があるのは事実なのかと調べなさい、と。

 

「わたしがいるという実感がある」これに仮説を立てて、「わたしという実感でしょうか、これは」と調べる。

実感があるというのは、明確に理解できると思います。それからその実感はどういうものか、どのようにその実感が現れるのか、実感というものは、ずっと変わらないものなのかと調べていく。頭から主語が消えたら、すごい世界なんです。

 

我々にとって「わたし」というのは、一つの塊ではないんです。一つの絶対変わらない玉ではない。無数の自分がいるんです。それを理解してください。

 

例えばわたしが喋っている。

その時にはあなたに「聞く自分」がいますね。「聞かない自分」もいるでしょう。わたしの言葉に反論する自分もいる。何言っているのかわからない、という自分もいるでしょう。いろんな自分が一緒にいるんです。

 

例えば、いくら喋っても皆さんに聞いた記憶がないのはなぜか。

それは、話を聞いている自分、聞いていない自分、反論する自分、過去や将来のことを考えている自分がいて、話を聞く自分が出てくる隙間がなくなっているんです。自分の中でそうやってたくさんの自分がいて、お互いに殺し合いをやっているんです。でもお互いに死なないんです。そうすると、その骨肉争いが終わらない。

人が悪いことをするときは、悪いことをしたいという自分がいる。バレたらやばいという自分もいる。そして、その人は殺しをやってしまう。どちらの自分が負けたかで結果が出てくるということです。良いことをしようと思ったら、やめなさいという自分もいる。勝ったほうが結果になります。だから人生はそういうことです。

 

一般の人々は、戦争ばかりやっていて、どちらが勝ったかよくわからない状態です。

たまたま自分が凶暴になる場合があります。その場合は病気です。例えば人々を憎む自分がいる。その自分がちょっと強くなっちゃうとどうなる? 病気でしょう。

あるいは、弱気な自分がいるでしょう。もしそれが力強くなったら、それも病気でしょう? わたしは弱い、何やってもうまくいかない、ということになっちゃう。世間では、常識的な立派な自分だというのは大したことがない。無数の自分がごちゃごちゃと争っていて、どちらの自分かわからない。そこで自己啓発とか、こちらの冥想会とかに来て、何か一人の自分を固めてもらっちゃおうと、その場合はしっかりするんだよと思っているでしょう。ヴィパッサナー瞑想をすると結構仕事がうまくいくんだよとか、病気が治りますよとか。何か自分が選んだいくつかの自分を強くしたいと思っているんです。明るい自分もいるでしょう。人間というのは明るくなるときもあります。それをすごく強くしてもらいたいとか。強気な自分を勝たせてやろうとか。そういう無数の自分の骨肉争いで、自分が決めた自分たちに勝利をあげたいんです。それで色々なところに行って、宗教組織に入ったり、信仰したり、ヴィパッサナー冥想をやってみたりとか。

 

ヴィパッサナー冥想に来るのは、アメリカで知られているんだから、という奴隷自分。猿自分。アメリカのものはなんでも正しいという、すごく気持ち悪い自分が出て来て、成功するわけがないでしょう。

 

自分というのは、反対の自分でないと成り立ちません。

だからみなさんの努力はまるっきり無駄です。良い自分を残して、悪い自分を殺してやるぞと。たくさんの自分があるのに、一部の自分に偏って、排除して捨てましょうと。皆様の知識では、これの何が悪いのか、と。弱気な自分をなくして、強い自分を育てる。落ち込む自分をなくして、明るくて活発な自分をつくことの何が悪いんですか、と思っているでしょう。それも無知なんですね。

ものというのは、反対のものがないと成り立たない。だから無駄ですよ。

美しいという概念は、醜いという概念がないと成り立たない。悪いという概念は、良いという概念がないと成り立たない。これがいいですよというためには、頭の中で悪いイメージが必要です。あの人はすごいいい人ですよと人を判断するとき、自分の頭の中で悪い人のイメージがなくてどうやって判断する?

 

だから現象というのは、その対立現象がなければ成り立たないんです。

N極とS極がなくて磁石が成り立つ?

 

盗みたくなったら盗む、怒鳴りたくなったら怒鳴る、それでは生きること(常識的な人生)が成り立たないでしょう。

要するに、意のままにいることは成り立たないね。その瞬間の自分がいうことをやってしまうのは、成り立たない。

自分自身で良い自分だと思っている自分の肩を持って、なんとか生きようとしているんですね、普通は。これは常識的です。

無数に悪い自分たちもいます。そちらの肩を持ってしまうと、病気や犯罪者ということになってしまいます。かなり危険な状態にいます。一人の人間の中で、無数の自分たちが戦っています。

無数と、ここで言っていますが、仏教心理学では数を数えてあります。

 

仏教では、自分たちは数えられないというのではなく、数えられます。

一般人や科学者、心理学者には、数えられません。仏教では、アビダルマで心所と言います。心所は52あるので、一個一個とってみると、一個一個の自分になります。例えば、欲(ローバ)という一つの自分がいます。怒り(ドーサ)という心所があります。それが働くと怒る自分です。自分たちというのは、組合を作っています。一人は力がないのです。いくつかの自分のグループを作って、生きてみようとする。欲という自分は単独では行動しません。いくつかの自分とグループを組んで、他の自分のグループを攻撃しようとする。

 

無数の自分たちが、色々なグループを作って、行動する。

一般の方々が冥想する場合でも、幸せな自分を作りたいと言いますが、これは科学的に成り立たないんですよ。反対の自分がないと。

そこで仏教の答えは、バーナーでも持ってきて全ての自分を焼き殺すことなんです。その後の状況には言葉がないんです。自分と一緒に言葉があるんだからね。

例えば、憎む自分が、反対の優しい自分がないとできないんです。人を憎む場合は、優しい自分を踏みつけて行動しないように抑えているんです。例えば殺人など犯している人々は、すごく残酷なことをしたんだけど、一旦法律で裁かれて、刑を終えて、まるっきり違う自分になっている。優しい自分になっている。犯罪を犯したときは、優しい自分を踏みつけて犯罪を起こした。これはまずいと、自分が踏みつけた自分を今度は育てるんです。優しくて思いやりのある自分を育てる。

育てたからといってその人は安全かというと、安全ではないんです。犯罪を犯した自分もいるんです。一時的に負けているだけ。いろんな自分たちがそうやって死なないんですね。死なないのは仕方がない。だって、反対のものがなければもう一人の自分が成り立たない。誰かを踏みつけなくちゃいけないんですね。というわけで、自分がないほうがいいということになるでしょう。それで戦いは終わるんです。

 

自分というものがいるならば危険です。

自我意識というのは、恐ろしく危険なんです。

これはありがたがって育てるものではありません。本物の自我を見つけるんじゃないんです。こんな危険なこと。

 

そこで絶対的に変わらない自分がいるというのは、初めからおかしい。

瞬間瞬間、変わっているんだから。瞬間瞬間、違う自分なのに。瞬間瞬間に違う自分になったのも、何かの戦いの結果なんです。何かしら自分たちが戦って、殺し合いをやって、誰かが勝っただけです。だから、絶対的に変わらない自分というのはいないんです。なのになんで、いろんな宗教で、永遠不滅な自分があるというんですかね。どこまで間違ってますかね。はっきり言えば、戦いは終わらない。ずーっと戦う、戦う、戦う、ものすごい戦いなんです。

 

皆様に、自分の気持ちを抑えた経験がある? ない?

自分の気持ちを抑えるとか、あれって結構苦しいでしょう。その気持ちが悪い気持ちなのか良い気持ちなのか、どうでもいいんです。抑えるには戦わなくてはいけない。

 

やさしい例で言います。

子供が何かに失敗します。怒鳴りたくなっちゃって、怒りがこみ上げてきたんです。そこで、怒鳴らないでどうしようかと。怒らないでどうやって子供にこれを教えようかなと思うと、苦しいんですよ。「コラー、何やっているんだ、このバカは」と言ったほうが楽です。そういうことで、たまたま別な自分が、感情に負けたら結果が不味いと言っていて、怒りの自分を潰してくださいと。例えば、怒りがこみ上げたら、怒りの自分を抑えてくださいと。そうすると、別な自分たちに頼んで戦わせなくてはいけない。だから気持ちを抑えたときは、苦しみを感じるはずなんです。よかった、わたしは感情を抑えましたよ、と自慢できないんですよ。それなりに、苦しみを感じていますから。

 

そういうことで、微妙にでも自分たちの戦いというのは苦しいんです。

それが生きることだから、生きることは苦しいんですよ。決して楽にはなりません。

わたしたちが気づきの冥想で教えているのは、その状態をなくせなんです。要するに、自分たちの戦いを見つけなさい、その前に自分というのはどうやって生まれるのか、それって限りなく生まれるんです。それを調べなさい。それで、自分、自分ということが消えちゃうんです。それで戦いがないんです。その人はもう人間ではありません。もう生命ではありません。

だから、聖者というのはそういうわけです。

全ての勝利に打ち勝っているんです。戦いはないんです。だから仏教の涅槃は、安穏ともいうし、解脱ともいうし、幸福とも言いますね。皆様の言う幸福は、幸福ではないんです。あれは戦いの結果だけ。一時的な、つかの間の結果、勝利です。すぐに負けます。

 

俗世間的な幸福を感じていて、ずっとそのままでいたいと言うのはありえません。

 

そう言うことで、物質世界でも反対のエネルギーがないと成り立たないし、精神的な世界でも、それぞれの反対のものがあってシステムが成り立っています。

 

話が難しくなりましたから、この辺でやめますけどね、冥想しながら、自分という実感がどのように生まれるのかとチェックしてください。自分という実感でしょうか、あるいはただの実感でしょうか。実感とは、何に対して実感というのか。

 

冥想を教えるときに我々は、妄想をやめてくださいというでしょう。しかし、やめてくれないでしょう。冥想しながら、冥想に逆らう自分がいるんです。だいたい冥想に逆らう自分が勝ちますね。

はい、これからやってみてください。

(終わり)