ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

World Buddhist #29 インドが舞台の芥川賞小説「百年泥」作家 石井遊佳さん

World Buddhist #29 インドが舞台の芥川賞小説「百年泥」作家 石井遊佳さん

 

雨季に入ったインド

 七月のはじめ頃まで酷暑でした。室内でも全てのものが熱を持ち、蛇口から出てくる水は火傷しない程度のお湯になっていました。水道水がお湯になって困ったのは冷やし中華やそうめんを茹でた時で、冷水にさらして麺を冷やすことができなくなりました。溜めた水に氷を使う方法もやってみましたが、氷の量も限界があってあまりうまくいきませんでした。そうめんはにゅうめんになり、冷やし中華はぬるくなった汁なしラーメンになりました。

 その地上の熱を冷ますように、七月半ばくらいから雨が降り始めました。雨季の到来です。涼しくなってホッとする一方、湿気が上がり、虫の同居者が目に見えて増えてきました。三十階建のマンションのエレベーターは天井から水がザーザーと流れ落ち、使用できなくなりました。道路は水があふれて川のようになり、水陸両用車かのように進む車、バイク。子供達は膝丈くらいの水位になった道路で泳ぎだしました。

 

洪水がきっかけで

 インド南部チェンナイで起きた洪水を経験し、それを元にした小説「百年泥」で、作家の石井遊佳さんが2017年に芥川賞を受賞しました。石井さんは、日本語教師サンスクリット語研究家の旦那さんと一緒にインドに住んでいた時期に、「百年泥」を書き上げたそうです。その石井さんのお話会がデリー近郊で開かれたので、参加してきました。

 そのお話会は、石井さんとその旦那さんが、在インド日本人参加者十数名とテーブルを囲んで話をするというものでした。「百年泥」はインドにいるインド人の内側を日本人の視点からリアルに描いた作品なので、参加者から出る質問もインドに関係する個人的なものが多く聞かれました。わたしが石井さんに聞いたのは、「インドに仏教が残っていると感じることがありますか?」ということでした。仏教のことを質問したのは、石井さんが東京大学インド哲学仏教学科出身と聞いていたからです。あるインタビューで石井さんは次のように語っていました。

「小説を書く参考文献が必要になると図書館に行って一生懸命読んでいて、たいていのことは『分かった』と思うんですけれど、ひとつ、何度読んでも分からないことがあって、それが仏教だったんです。だから仏教を勉強しなきゃいけないなとしみじみ思って、もう一度大学に入って勉強したい気持ちがもともとあったのもあって、その時たしか36歳だったんですが、東京大学の印度哲学仏教学科というところに学士入学したんです。」(注)

 

石井さんの答えは……

 わたしの質問に対する石井さんの答えは「うーん、ないですね」というものでした。石井さんの隣に座っていたサンスクリット語研究者でもある旦那さんは、「インドに仏教の痕跡は、遺跡の他には全く残っていないですよ。仏教の研究者はインドにほとんど来ません」ときっぱり話しました。

百年泥」の作品中には、石井さんが学んできた仏教の影響が現れた箇所があるそうです。そのうちの一つは、「無我」の考え方で、めまぐるしく移り変わる自分の中に「わたし」というものが存在することなどできないという意味で、次のように書かれています。「どうやら私たちの人生は、どこをどう掘り返そうがもはや不特定多数の人生の貼り合わせ継ぎ合せ、万障繰り合わせのうえかろうじてなりたつものとしか考えられず(後略)」(「百年泥」123ページ)

 

「全ての希望を捨てよ」

 現在は主に日本に住んでいるという石井さんは、細い体に黒いタンクトップ、ジーンズをはき、赤いチェックのシャツを羽織っていました。外に出るときは二重にマスクをして、大気汚染対策をしていました。その様子から、おそらくインドが好きではなさそうだと感じられました。予想通り、「インドは日本人教師の夫の仕事についてきただけで、あまり好きではない」ということでした。自身も日本語教師として手ごわいインド人生徒を持った時も、「全ての希望を捨てよ」「諸法無我なんだから笑い飛ばしちゃおう」と思いながら過ごし、その時の体験が小説「百年泥」として実りました。好きではないインドを淡々と観察して書いた小説の中のインドやインド人は、わたしたちが日々接するインド社会のように馴染みのある、でも一方で見たことのないものとして鮮やかに浮かび上がっています。

 

(注)

WEB本の雑誌 作家の読書道 第194回:石井遊佳さん

http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi194_ishii/20180516_5.html

 

World Buddhist(ワールドブッディスト)は、日本テーラワーダ仏教協会の機関紙「パティパダー」(送料込み600円)で連載中です。

今回のWorld Buddhist #29は、パティパダー2019年9月号に掲載されました。