ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

ときどき無性に死にたくなる。そのときどうしたらいいか?

質問「ときどき無性に死にたくなって、自殺のことばかり考えてしまうんですけど、その時はどうしたらいいか教えて下さい」

答え(スマナサーラ長老)「人生論を変えなくてはいけない。世間が私の面倒を見るべき、と思ってない?」(2013 3/31 関西定例瞑想会@マーヤーデーヴィー精舎)

 

この説法の音源は、β関西活動報告 : '13 3/31 関西定例瞑想会@マーヤーデーヴィー精舎です。

 もうダウンロードはできないのですが、以下のような方法で聞けました。f:id:thierrybuddhist:20140925134545j:plain

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「ちょこっと前置き」

この答えの最後には、「あんたはとんでもない、無知・ばか・あほか! それなら生きる権利はない」と質問者の方が言われてしまいます。おそらく大抵の方がギョッとしてしまうと思うので、背景を説明しておきます。

まず、この質問は精舎(お寺)の定例瞑想会でのものなので、ある程度キツく言われるのは覚悟の上みたいな前提があります。わざわざ足を運んで、読経して瞑想してそれから質問、という流れですから、質問者の参加意思がないと成り立ちません。スマナサーラ長老も、もっと一般的な講演の場ではマイルドです。それと、自殺志願者に対して怒らせることで死ぬのをやめさせる、という考えがあるそうです。現に、今回の質問者の方も最後に「ありがとうございました!」とおっしゃっていましたが、「た!」のところが(`⌒´♯)こんな感じに聞こえました。なのできっと、今もお元気でしょう。

 

特定のお坊様が嫌いだから仏教イヤっ!!となってほしくなくて、前置きしました。

大丈夫でしょうか。じゃあ、答えの説法めも、行きまーす。

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回答(スマナサーラ長老)

「ときどき無性に死にたくなって、自殺のことばかり考えてしまうんですけどその時はどうしたらいいか教えて下さい」 

その時だけですかね。

その時どうすればいいかっていうことは答えがありません。

我々は生きることをどう見ているのか、自分自身の生き方で色々反応が出てくる。

ある人はしっかり頑張んなければ、まあこれくらいでいいのではないかとか。そのなかの一つです、自殺したくなるというのは。

 

「生き方ランキング」

人生論を考えてみましょう。

一番のトップランクは自分のことを捨てておいて、自我を捨てて大勢の人のために献身的に助ける、すごい活発で明るくて元気いっぱいの生き方。自分のために生きているんではなくて、せっかく生きているんだから他の生命のために生きていこうと。これもその人の人生の考え方。

次のランク。周りの人の面倒を見てあげて、自分の範囲の中でしっかり成功して生きている。

3番目のランク。人に手を貸さないで、自分で独立して生きていく。それなりに自分のことを面倒見る。社会のことまでは手が回らない。

ここまではまあいい方。

 

マイナスランクになります、ここから。

やる気がない人生。できることなら仕事したくない。親から怒られたら仕事へ行く、職場で起こられたら辞める、その繰り返し。何とか生きている。マイナスランク。

4番目。自分で何もやりたくない。親に食べさせてもらう。我がままほうだい。食っては寝る。親に寄生して生きている。自分で生きない。生かせてもらう。

5番目。最悪。6番目まであります。これらは個人の人生哲学からきている。

6番目。自分の幸福は社会がやってくれるべきだと思っている。環境のせいだと思っている。親のせいだと思っている。会社のせいだと思っている。自分は完璧。世界は自分のお世話をするべきだと思っている。でもそんな事実はない。それで腹が立つ。嫌だと、極端な怒りを作って自殺したくなる。

6番目は強弱がある。弱は、やる勇気が無い。強は、人を道連れにしたりして自殺を実行する。

 

ではどうすればいいか。人生哲学を変えるしかない。

自殺したい人がそう簡単に考えを変えられない。長い間手をかけて耕した畑。今更実りを変えたいとおもっても遅い。リンゴ、5年くらいかけて作った。やっぱりリンゴはいや。儲からない、じゃあはかのものを栽培しようと思っても、もう遅い。

人生論っていっても自分の物。自分の生き方。みんな持っている。哲学と言うほどの物じゃない。自分の人格それぞれにある。それを変えたいと思っても、ちょっと難しいところもある。

 

(もし変えようという意思があるなら)変えるのはいたって簡単、自分の人生論を変える、考えを変える、メガネを変える、入れ替える。

ランク1から3は、いいメガネをかけている。4からは度数が合わない。正しく世の中を見えない。1から3は苦労しない。それ以下、苦労ばかり。

 

どうやって変えますかね、人生論を。

お釈迦様の人生論が一番なんですけどね、それを理解すれば人は幸福になるんですけどね。

でも完全たる教えってなかなかみんな好まない。不完全な教えならみんな気に入る。嘘交じりなら、信じる。

 

西洋の宗教。神話は人間が作ったインチキ物語。その上で人生論を作っていく。これは結構人気がある。完全に間違えというわけではないが。神に感謝しなさいという。感謝する人間を作る。これはトラブルを起こさない人間を作る。ご飯に感謝、服に感謝、自分はついている、感謝。朝から晩まで感謝。よく見ると結構人間と言うのはついている。ホームレスの人も、結構良く見ると、ついている。ラジオ持ってたりするでしょ。ずっと流しっぱなし。世界とコミュニケーションをとってのんびり生きている。新聞も買う必要ない。時間もある。相当ついている。日本の状況を皆様より知っていると思います。新聞も読める、雑誌も読める、漫画も読める。

 

ときどきボランティアの方々はごちそうを作ったりするし。ホームレスも感謝いっぱいで生きられる。ついているんだ、と。

「欠点 ≠ 不完全」

この、メガネを変えた方が簡単。欠点を見るメガネではなくて。ひび割ればかりはいっているレンズ(=欠点を見るメガネ)。

本当は、欠点はないんです、何にも。もし欠点があったら壊れるんです。たとえば、この建物が欠陥だらけだったら、もたないでしょ。体に欠陥が出たら、終わりでしょ、人生は。それであれは欠点これも欠点と見る人はおかしいでしょ。欠点や欠陥があれば壊れているはず、存在できない。でも、何一つも完全ではない。完全ではないことと欠点は違う。完全は成り立たないだけ、どこにでも。完全を期待すると、これまたおかしい。因果法則で成り立っているんだから、完全にはならない。不完全=欠点ではない。リンゴは完全ではない。リンゴにも品種がある、ランクがある。一個100円のリンゴ、300円のリンゴ。何が違う? でも同じリンゴ、食べられる。リンゴに欠点はないが完全ではない。もし腐っていたら、これは欠点。食べられない。

人間の脳がおかしくて、何に対しても欠点が見える。脳がおかしい。不完全を発見することは智慧。でも、ありもしない欠点を見ている。それは幻覚です。

神を信じている人々は、感謝で生きている、うまくいっている。花は美しいし完璧だと思う、でも実は完全ではない。まじめで感謝の気持ちで生きている、一神教の人々は幸せに生きている。私を守るのは世界の義務だとは、思っていない。

「どうにもならない自然法則」

ときどき人間が負けそうになってどうしようもないことがある。たとえば、子供が病気で死ぬかもしれない。どうすることもできない。医者にもわからない。自分の無気力を感じることもある。そのときキリスト教の方々は祈りがある。「神よ、あなたの希望通りに、私の希望ではなく」。これで起こる心理学的変化はこういうことです。世の中の法則にはかなわない、だったら放っておきましょう、と。こん畜生、医者を恨む、神を恨むという気持ちにならない。祈りが人の精神状態を治してあげる。だからインチキも結構役に立ってますよ。

 

日本で災害が起こるたびに浄土系の人々が言って、「大丈夫です、もう極楽浄土に行っています。成仏しています」と。完璧嘘ですけど。でも、人の気持ちを治す。こうして嘘じゃないと人は信じない。

 

ほんとはブッダの教えなら、(嘘が無い上に)怖いものなしなんだけど。

 

一神教の方は、「神のご意志で子供が亡くなった」という。でもどこかおかしいと本当は思っている。お釈迦様の仏教はそういうことは(ごまかしは)ない。

 

(子供が亡くなること)それは自然法則だ。その流れを変えることはできない。世の中で、どのくらいの生命が子供のころ死ぬのか。そうすると、子供のころに死ぬ動物がはるかに多いという事実が浮かび上がる。例えばウミガメ。200個の卵、生き抜くのは4匹程度。人生全うしないで子供のうちに死ぬ数と、大人で死ぬ数は、比較にならない。人間の場合はいかについているかわかるでしょ。100人の子供中、一人も死なないくらい。そういう風に冷静に見ると、疑念なく法則とわかる。理性があるわけないと(人間を甘く見て)、宗教は神話物語を語る。

仏教は理性を語る。親切でしょう。でも(仏教の)人気はゼロ。

 

「世間が私の面倒を見るべき、と思ってない?」

世間に対して偉い態度をとってはいけない。

親に対して、私の面倒を見るのはあなた方の仕事でしょ、学校で会社で、わたしをかわいがるのは当たり前ではないか、と。その態度に、自分自身が気付いていない。

世の中の欠点ばかり見る。自分が完ぺきな人間だと思っている。自我の錯覚がものすごい。しかし現実はただの人間が一人。誰でも。それとのギャップが、自我が大きければ大きいほど、ギャップが大きい。それで自殺を考える。

 

何一つも、自分で管理できない宇宙法則の中で生きている。花を咲かせることすらできない。法則によって咲くだけ。自分のわがままで結果を変えられない。(例えば、芽が出る前に種から直接花を咲かせるとか)バナナを食べる。皮は食べられないから、皮をむく。このルールに従うしかない。だからって青いバナナを食べられる? あくがあって食べられたものじゃない。まずいこと。想像できないほどまずい、青いバナナは。口の中もかゆくなる。バナナを食べたければ、法則に従うしかない。熟すのを待って、皮をむいて食べる、という法則です。

 

「すごく、ついてる!」

私たちは、生きてる自体でついていると気付くこと。法則に守られている。一日生きているだけでもものすごい感謝しなくては。あまりにも恵まれている。そこを気づかない。ただの一人の人間で宇宙から見れば何でもないのに、この態度! 

自殺と言うのは頭おかしいだけの話で。欠陥の物は壊れるに決まっている。思考が欠陥なんです。

感謝する人間になる、自分がどれほどついているのか、親が苦労して育ててくれたこと、自分がロクでもないのに、社会に何も貢献してないのに、それでも恵まれて生きている。

具体的に客観的に世の中を見ると、人間はものすごくポジティブになります。

自分だけの物は大して持ってない。それでも贅沢に生きている。電車に乗ってみたら、どれほど贅沢にできているのか。道路でも。どれほどしっかり整理整頓されているのか。街灯も、きめ細やかく計算されて設置されている。そういうのを見て、楽しめるでしょう。いかについているのか、いかに贅沢に生きているのか。ちゃんと目を開けてみると見えるはずなんです。皆のために仕事をしている人たちがいる。

自殺したくなるって、誰に対して怒っているんですか。

自分の存在自体を取り上げてしまうことですよ。

まちがえを誰がしたのか。無償無制限で助けてあげたのに、文句を言っているのはだれか。たとえば、人がすごく苦労してごちそうを作って接待する。その人を怒る。怒るんだけど、おなかがすいているから、むしゃむしゃ食べる。食べ終わってから、再び今度は作ってくれた人を怒る。どんな言い訳ができる? 怒ることに対して。成り立たない話。その場合はどんな言葉で怒った方がいいのか? という質問に私は答えることができない。豆腐料理があるとして、豆腐の上になんでこんなに美しくねぎを乗せたのか? と怒るんですか?

 

「人生論を変えよう」

生の哲学を、変えなければいけない。仕事はしない、親に依存する、社会の寄生虫になる、周りに迷惑かける、揚句に自殺をする。これではだめ。

世の中は自然法則で回ってますからね。何でもかんでも自分の思う通りに行かない。我がままで物事は進まない。研いだご飯は変化しなければ食べられない。

病気になったら、なんで私が病気になったのかと言う人がいるでしょう。そういう我がままではなく、法則で世の中は変化していく。

 

「不完全が幸福のもと」

感謝に富んだ人生論を持たなくてはいけない。何にでも感謝、いろいろな発見ができる。すべてのものは不完全だから、その辺は注意が必要です。子供がいたらそれだけで感謝ですが、子供も完全じゃないので、それでストレスがたまる。誰でも不完全です。でも、不完全が欠陥に見えるのは、おかしいのです。本来、不完全がありのままの姿です。

ポジティブに見ると、逆に不完全と言うところがいいんですよ。不完全で良かったなと思える。不完全だからがんばれるでしょ。人間てがんばることが楽しいでしょ。やることが有って頑張ってみたら結果が出る、それでまた楽しい。完全だったらどうする? やることが無い。これほど不幸なことはない。

不完全である、やる気が出てくる。がんばれば完全に近づく。すべて不完全であること、これが幸福のもとでしょう。

 

あんたはとんでもない、無知ばかあほか! それなら生きる権利はないです。または、理性が残っていますか? まるっきり勘違いの思考で生きていますか? わたし以外のものがみんな悪いんだと。

……感謝する思考で生きてみてください。

 

質問者「ありがとうございました!」