ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

貪瞋痴の分け方(無知)

 

質問「 先ほどの質問(「貪瞋痴の分け方(欲と怒り)」) に関連して、退屈はどういう分類になりますか?」*1

 

  回答(スマナサーラ長老)

 

分類する方法は、「これ、気持ちいい?」と自分に聞けばね。

 

「退屈は、気持ちいい?」と聞いてみるとすると、「ちょっと嫌だな」となるでしょ。退屈はないほうがいいでしょ。そうなると怒りのグループなんですね。

欲の場合は、「あってもいいや」と思う。

 

たとえばどこかドライブへ行って、「ああ、早く帰りたい」とは思わないでしょ。

普通は、いろいろ見学して喜びたい。それで自分に質問します。

「この環境は気持ちいい?」

気持ちいいんですね。だから欲のカテゴリに入ります。

 

そういうことですごく簡単に分類できます。

 

退屈、これは現代的なもので、パーリ語にはありません。似たものはありますけど、ちょっとニュアンスが変わってきます。

わたしたちは感情を欲か怒りに分けてみることはすごく簡単です。

分けてみたほうがいいんです。

 

でも「貪瞋痴」ですから、「痴」はどうなっているのか? となりますね。

これがかなり問題なんです。

 

だからあまり、貪瞋痴に三つそれぞれ分類することに頑張らなくてもいいのです。

欲と怒りだけに分けてみればいいです。それでどんどん分類の経験を積んでいくと、「あ、これは痴だ」と分かるんです。

 

問題は、無知はずっとあります。無知がない瞬間はないんです。だから「これが無知だ」と瞬間を発見することは難しいんです。

 

海を見たら何を見ますか。クイズです。

 

水? うそ。水を見る人はいない。

波を見るんです。

 

波がない時でも、「今日は波がないな」と波の概念を入れて海を見ます。

 

ずっと貪瞋痴の中で、無知があります。無知には気づかないが、無知以外の波に気づくんです。だから、欲・怒りに気づくんです。

 

欲と怒りがない場合は、無知だけですが、なぜその時気づかないのですか。

これは経験してプロにならなきゃいけないんですね。

「これは怒り、これは欲」と分けて、分けていくと、ときどきびっくりすることがあります。

「あれ?」と。それは欲ではないんですね。怒りでもないんです。

だったら無知でしょ。

 

問題は、無知が無知であると気づくと、それには無知がないんです。気づいているんだから。

 

悪の場合は、邪見が無知のからくりなんですね。欲で思考を捻じ曲げると、自分でも気づく。怒りで思考を捻じ曲げても、気づく。データをねつ造していると。

データをねつ造して、気づかない場合は、これが邪見なんですね。邪見でいるときは、きれいに無知なんです。

「神様を絶対に信仰する。神様は絶対にいる」となったら無知なんです。欲でも怒りでもない。

 

じゃあ、ある人が素直に邪見を持っているとしましょう(笑)

そうすると、無知に気付きやすいはずでしょ。でも気づかないんです。本人が自分は正しいと思っているんです。これは無知だと分からないんです。

「神様がいないはずがないんだ。そうでなければ、この世の中がこんなふうに出来上がっていない」と言う場合、自分は正しいと思い込んでいます。きれいに無知です。

 

では、本人が気づいて、「あれは邪見でした」となると、もう無知ではないんです。

そういうわけで、無知に(瞬間的には)気付かないんです。

 

(関西月例冥想会 2014.12.14 https://www.youtube.com/watch?v=RMrFavG8fG8

より、メモしました)

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*1:


貪瞋痴の分け方(欲と怒り) - 瞑想してみる