前回の五蘊
The five Aggregates 五蘊(ごうん、pañca-kkhandha) - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory
で、「のちに説明する十二縁起の循環における五蘊の過程を理解すると、この無我たることの意味をはっきりと見ることができる。 また、五蘊が相互依存としてしか存在しないと知れば、業(Kamma)の原理がどういうものか正しく理解できる。」
ということで、
今回は「縁起」について、同じくパユットー長老の「仏法」から抜粋してツイートしました。
最初に述べたように、https://t.co/eHH9r8HDfN
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
生命は五蘊だけで成り立っている。五蘊の中に潜むもの、五蘊の所有者もない。または五蘊をコントロールするものもない。
したがって、生命のことを考察するには、五蘊を取り上げればそれで十分である。続
「仏法」P.O.パユットーhttps://t.co/XiIvmloojt
五蘊は、縁起の道理に従って進む過程である。すなわち、相互に繋がる関係にある様々な因縁の流れの形である。流れの中に不変で存在する部分はない。ただ生じて滅するだけである。同時に、さらに続けて消滅を生む縁となるものがある。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
続
様々は部分は、互いに縁となって関係し合うので、この流れ、ないし過程は因果関係があるように進み、連続して形を作る。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
このような状態で、五蘊(生命)は三相の法則に従う、すなわち無常性の状態であり、確固不変ではなく安定しない。常に消滅している。
続
また無我性の状態であり、自我のある部分はなく、固執できない。所有者として保持することはできない。真に自分の望むように命令することはできない。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
また苦性の状態であり、刹那刹那に消滅によって圧迫されていて、知らずに関係する場合には、常に苦を生む。
続
この、不変の実体部分がなく、一瞬一瞬変化している五蘊、あるいは生命の過程は、そのものの自然の道程に従って、ことごとくが関係し合う因縁の流れとして進んでいる。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
続
しかし、凡夫が生きる場合には、誤った考えが生まれて、流れに逆らうことが生じる。同時に、流れに生じる変化・回転が、その望みとの間で軋轢を起こして圧迫することになり、激しい執着、欲求を引き起こす。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
続
なんらかの形で自我を持ちたい、そしてその自我をどういうものであれ求める形で永遠に安定させたい、というあがきが激しくなる。自分の執着、要求する方向に進まないと圧迫はますます失望する結果を示し、それにしたがって、苦、悩みが激しくなる。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
続
同時に、間違いなくなんらかの変化が起こり、自分が保持している自我がなくなるか、消えていくのではないかということに漠然とした不安を抱く。懸念や恐怖が心の中に深く複雑に隠れて入ってくるとともに、執着、欲求をますます強固なものにしてしまう。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
続
このような心理が、無明(真実を知らずに自我があると誤解する)、渇愛(あると誤解している自我に様々なものを得させたい、様々なものにならせたい、ならせたくないという欲求)、取(自我があると誤解して、それを様々なものに結びつける執着)である。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
続
これらの煩悩は心の中に深く、複雑に隠れている。そして、人間が気づいていようがいまいが、いつも人間の様々な行為をその命令に従わせて人格を形成し、その人間の運命を決める重要な役割まで果たす。広く言えば、それが全ての凡夫の苦の生じるところである。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
続
こうした軋轢、圧迫、苦は、ただ本人だけでなく、他人に対しても、社会に対しても、軋轢。圧迫、苦を拡大する。このような状態は、人間の行為から生じる社会全体の苦、苦痛、問題の生じるところであると言えよう。
— ブッダラボ Buddha Labo (@BuddhaLabo) 2021年7月29日
終
次回は業(Khamma)です!