ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

生きることは本当に苦なのか?(3)

(生きることは本当に苦なのか?(2) - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

から続きます)

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生きるのはせいぜい長くても80年です。

その80年でやったことの結果を受けるために、何劫年も地獄で苦しまなければならない。また人間に戻るチャンスはない。それくらい人間は賢いんです。

 

楽しみを得ようということで我々は行動しなくちゃいけない。仏教用語で言えばいたって簡単で、パーリ語ではサンカーラと言うんですけどね。いわゆるポテンシャルですね。幸せになるために身口意の行為をしなくちゃならないんです。これに使う仏教用語は「行」何です。いわゆるポテンシャルです。それは一つも正しくはないんです。一時的な刺激を得るために何でもやる。人は金が欲しくて、人殺しまでするでしょう。強盗までするでしょう。強盗までする人たちは、金が欲しい。金があったら楽しい。パチンコができれば楽しい。盗んだ理由を問えば「遊ぶ金が欲しかった」。結果として遊ぶこともできなかったし、犯罪者扱いされるし、犯した罪は長い間、何億万年も苦しまなくてはいけない。

 

わたしたちは、水を飲むときでも苦しみがあるから水を飲んでいる。苦しみがなければ水が美味しく感じないんです。ご飯を食べる時も苦しみがあるからです。人生は苦しいから仕事をして金をもらっている。テレビのスイッチを押すときは、苦しみが必要です。テレビが楽しいからテレビを見ている、というとんでもない屁理屈を言うんです。すごく楽しいのならテレビのスイッチを入れる必要がないでしょう。苦しいんですよ。さみしい、退屈、イライラしている。不安。それでテレビをつけちゃう。

 

テレビも良いことを伝える場合もあるんだけど、そのために30分のプログラム、一時間のプログラムにコマーシャルを入れて、本当は30秒で伝えられる話を引き延ばす。

 

テレビをつける時、苦しみがあるからテレビをつける。テレビを消す時も苦しみがあるからテレビを消す。こんなことをやっている場合じゃない、あれをやらなくちゃこれをやらなくちゃと。

もし苦がなければ、我々は瞼を閉じることすらしません。体を動かす時、何で動かしたのかとチェックしてみてください。

 

皆様方は1日三回バファリンを飲んでいる? 飲んでないね。では今まででありがたくバファリンを飲んだことはない? バファリンに感謝したことはない? 

この間薬局で、ある人がバファリンを手にとって見ていました。それで一箱買っていった。どうして? その人に痛みがあったからでしょう。耐え難い痛みがああったら薬を飲んで痛みが引くでしょう。そしたらその薬に感謝してください。その薬を作るために大勢がどれだけ頑張ったのかと。

薬に感謝するためには、苦しみが必要なんです。

 

人は、自分がいかに金持ちで豊かかと宣伝したくてたまらない。

世間に自分の富を見せびらかす場合も、苦しみがあるんです。虚しさを感じているんです。見せびらかしたところで、あの不満が、退屈さが消えるんです。人から褒めて欲しい。すごい車ですね、とか。その人はその瞬間が幸せを感じるんです。

 

楽しみを味わうためには苦しみがなければいけませんという世界に執着していいのか。

 

この苦しみと楽しみの循環というのはわたしたちには思うようにならない。この中で生きようというのは、「行」をやっているでしょう。このポテンシャルは、しっかり結果を出します。悪業のポテンシャルには、悪い結果が出ます。悪い結果が出たら、そこを直すと幸せを感じるでしょう。そんな甘くないんです。悪行為の結果が出ると、頑張って幸せになるチャンスはロックされています。

 

仕事をして色々な行為をして80年経って死んだら、餓鬼道に例えば行ったら楽しみがないんです。そこでもしかすると、だいたい千万年単位で年数を数えなくてはいけない。年数というのは人間の単位ですけど、80年間人間として色々なことをやった結果、百億年の刑というのは面白いですね。

 

現代人というのは輪廻転生がないと言っているでしょう。頭がいいですね。ないという証拠はあるんですかね。あるという証拠はいくらでもありますよ。

 

何かの形(エネルギー)が壊れる。しかしエレルギーは空になる、無になると証明できる? 「俺は知らない、だから無い」という話でしょう、知識ぶっても。「俺が知らないものは存在しない」という立場でしょう、科学者というのは。「科学的には証明されていない」でストップすればいいのに、「だから信じません」という立場でしょう。「科学的に証明する」というその「科学」は完成されていますか? 科学的に世の中にあるすべてのものは証明できるようになっていますか。

 

いつでも現象は一時的に壊れる。壊れたら次の結果が現れます。何かが壊れるとは別なものに変わることです。一切が無常である=輪廻転生ではあります。一切は無常であるから、転生するんです。では一切が無常でないと証明できる? 目の前で物質の転生を見ているのに、精神の転生は認めないとは、立派なこと。なんでかと聞いたら「俺が知らないから」という態度でしょう。いわゆる観察能力があまりにも乏しい。観察はするんだけど、一つだけ。昆虫科学者は昆虫だけ観察する。他に何も興味がない。昆虫科学者は昆虫をよく知っていますけど、自分の子供がなぜ不機嫌になっているか、それはわからない。それは観察していない。だったら命を観察すれば。昆虫じゃなくて。昆虫も命で、自分の我が子も命でしょう。ほんの少しの能力もない。昆虫と我が子は別の存在、と存在だけで見る。

 

ご飯を食べる。ご飯を食べた時点で無常でしょう。口の中に入ると、吐いたものと同じでしょう。口の中で噛んだら超気持ち悪いものになっているでしょう。目の前であっという間に、ものすごく早く変化するんです。無常です。だから皿にあるご飯と口の中のご飯は同じじゃない。

(1:55:0)

<続きます>

スマナサーラ長老 法話と実践会(東京)

https://www.facebook.com/jtheravada/videos/1813433162051878/

を聞いて書きました。

法話ツイッター中継:

スマナサーラ長老の仏教法話(@jtba_talk)/2018年07月08日 - Twilog