ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

ブッダの冥想実践会2015 「自我がないところに慈しみと智慧があらわれる」

スマナサーラ長老・ブッダの冥想実践会2015 @住吉大社武道館 2015.07.26

「自我がないところに慈しみと智慧があらわれる」

https://www.youtube.com/watch?v=vHGtGcOjAGA

 をきいたメモと感想です。縦線部分が講演会メモ。

 

皆さまは自我が好きかもしれませんけど、悩み苦しみが好きですか? 落ち込むのが好きですか? 精神的にクタクタ・傷だらけで生きることが好きですか? 逆に、穏やかで安穏で、すごく明るく軽い気持ちで生きることが好きですか?

それはもちろん、穏やかで明るく過ごしたいす。

 

もし後者を選択するならば、軽いこころで空気のように生活したいと思うならば、「自我」という問題について考えなくてはあかんです。

 なぜならば、悪魔は自我なんです。自我が敵なんです。徹底的に人を苦しめます。いくらなんでも苦しみは死ぬまででしょう、ではないんです。自我が、その生命が死んでもまた新しい生命を作って、またクタクタいじめていくんです。終わりがないんです。

 自分が悪いんだと責められているように感じたとしたら、そうじゃないんですよね。

自分≠自我。自我は「わたし」ではないので、決して自分が悪いという話ではないんですね。

 

死後、いいところへいくならば問題はないかもしれません。しかし、そう決まっていません。輪廻転生の危険なところなんですね。たとえ子供のころ明るいこころでいても、死ぬときはガタガタのこころで死ぬから、死後は「ありがたい」んですね。

そのときも、苦しみがあればあるほど自我が強いんです。

 

ここ、「おっ?」と思ったところ。 

輪廻転生は右肩下がりですね。苦しみが続いて、どんどん堕ちていく。それで少し頑張ったところで右肩上がりになっていきますが、また堕ちる。

グラフで右肩下がりの線を想像してみるといいかな。

この輪廻転生の「グラフ」の比喩として長老が出されたのは次のストーリー。

 

ギリシャ物語。

詐欺師の誰かが神様とけんかして、神様が地獄へその人を落とす。罰は、大きい岩を山の上に持ってくこと。頂上に岩を載せることができれば、あなたは自由です、というもの。その詐欺師はなんとか岩を押していくが、途中で岩が坂を下って落ちて行ってしまう。また押し上げる。下がる。また初めから頑張る、また落ちる、の繰り返し。

「今度こそやってやるぞ」と、今も頑張っているみたいです。

そこで、頂上までの道に、決して上にいけないようなからくりが仕込んであるんです。

 

わたしたちの輪廻転生も、そういうものなんです。

 よく、「次に生まれ変わったらお金持ちになりたい」と言ったりしますが、輪廻が右肩下がりなら、ちょっと叶いそうにない願いですね。人間に生まれることも超難易度が高いそうですし。

仏教徒の場合は、「今生では覚るのはちょっと無理目なんで、修行は来世でがんばりまーす」と気楽に思うものですが、それもできるかどうか、かなりあやしいということですね。

 

犯人は自我なんです。わたしたちが一番好きなものが、自我なんです。一番捨てたくないものが、自我なんです。体の臓器は、病気になったらいくらでも切って捨ててしまうのに。

ほんとだ~。

 

ダンマパダ3と4から、話を始めます。 

Dhammapada 3, 4

Akkocchi maṃ avadhi maṃ, ajini maṃ ahāsi me;

Ye ca taṃ upanayhanti, veraṃ tesaṃ na sammati.

 「わたし」をののしった、「わたし」をいじめた、「わたし」に勝った、「わたし」の財産を取り上げた、

このように思う(悩む、恨む)人の怒りは消えません。

 

Akkocchi maṃ avadhi maṃ, ajini maṃ ahāsi me;  

Ye ca taṃ nupanayhanti, veraṃ tesūpasammati

「わたし」をののしった、「わたし」をいじめた、「わたし」に勝った、「わたし」の財産を取り上げた、

このように思わない人の怒りは消えていきます。

 

「わたし」にフォーカスしないで、出来事にフォーカスする。

それで自我が作り出したねつ造を見破る。

見破った先には「ありのまま」の現象がある、ということですか。

 

「自我ではなく、無数・多数の自分」

その都度その都度、自分が変わるんです。

 

自我とは「自分」という家に住んでいるお化けです。

 

無数の流動している自分を発見してください。

 

その瞬間の役を演じる。

その瞬間の、他人と仲良くする。その瞬間の、他人の気持ちがわかる。

 

流動的な自分を発見したら、慈しみ、思いやり、があらわれる

日常の問題は楽しく演じるべき役と考える。その場その場の役を楽しく演じる。

 

自我の強い人は、海の中に動けずにいて、波にあたって、あたって、痛めつけられる。

流動の自分を発見した人は優秀なサーファー。

 

のこるものはなにもないが、

すべての生命は平等だとわかる。

他の生命の尊厳を守る人になる。

人の感情に操られない。

無量の慈しみがあらわれる。

 「無量の」がスクリーンで「無料の」になっていて、「これは今すぐ直さないと(笑)」とスマナサーラ長老。でも、これも間違いではないですよね。慈悲は「無料」です(笑)

 

瞬間、瞬間、変わる自分が楽しい。

 

無数の自分、流動の自分を発見することが智慧なんです。

固定の自分は成り立たない。だって演出でしょう。場面に応じて泣くけれど、それでこころは汚れない。

 悲しみで、欲で、無知で動くのではないからこころは汚れない、ということ。

状況に応じた反応をするけれど、そこに貪瞋痴の動機はない、ということでしょうか。このあたりは薄皮一枚みたいな微妙さを感じました。

 

自我がなくなったら、

こころを汚す必要がないとわかること、

すべては無常であると発見すること、

生きることは苦であると発見すること、

こころに執着があらわれないこと、

こころが完全たる安穏に達すること

これが智慧なんです。

こころを「汚さない」んじゃなくて、「汚す必要がない」。「執着しない」んじゃなくて、「執着があらわれない」。 これは重要ポイントです。

 

「自分を救済しましょう」

自我という錯覚が人生を誘拐しているのです。

自我はどのようにあらわれる錯覚かとその過程を観察する。

瞬間に変わる流動の自分を発見する。

自我という無知・無明からこころを解放する。

そして、解脱に達します。(法話おわり)

「自我はどのようにあらわれる錯覚かとその過程を観察する。」ここを、いつも頑張っていきたい。苦しいときは、よく見ると自我がある。苦しむ前に、その発生の流れを追っていけたら。

 

今回は、「輪廻は右肩下がり」が、わたしはとくに注目ポイントでした。

死に際して肉体がしんどい状況で、こころは怒りでいっぱいになってしまう。そのこころが掴む次の体は、それ相応のものになる。だから、坂を転げ落ちるように、輪廻はマイナス成長なんですね。

“しめの言葉「輪廻はマイナス成長」”

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