質問
「文章を書くことを専門にしています。小説を書くときは自分から妄想の世界へ突っ込んで行きます。瞑想指導を受けて、これは小説を書くときとは真逆だと思いました。小説や詩など芸術全般は毒なのでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
「一般論的」には、これは毒であって、世界へ毒をばらまくことでもありますが、結果として一番苦しむのは芸術家なんですね。
小説を書いて、一万部売れたとしても、書いた本人が一万回苦しみます。楽な作業ではありません。淡々と書く人はいますが、それでも精神的に壊れてしまいます。
小説家よりも労働しますよ、医者とかはね。時間的には。でも医者は壊れませんね。アル中になったり麻薬をやったり、反社会的なことをしません。一方で芸術家の世界では、かなり危険なことになっていますね。
しかしその方々も、正直で、すごくいい作品を作りたいと思っているんですよ。いい加減じゃない。みんな真剣です。
他の人に、見て聞いて読んで楽しませたい。本人としても立派な完成した作品を出したいでしょ。だから気持ちは正直なんですけどね。やっていることによって、精神的にはダメージを受けたりはする。
それはもう避けられません。原発の仕事をしている人々と同じです。ちょっとでも事故ったら、先にその人々が被ばくしてしまいます。
ここまでは一般論でね。
では、芸術は、完全に悪かと言うと、そうでもないんです。これは人間の能力ですからね。
みんなに書けるわけないでしょう。だれにでも小説かけるんだったら、小説家は商売になりません。
人間の一部に書く能力があって、それで生計を立てるようになっています。だから人間の世界では、できる人に皆が頼んでいます。でなきゃ金になりません。
私はスーパーで食料を買う。なぜなら私に食料を作る能力がありません。農業のことを知っていても、土地がありません。私にできないから、他の人から買っている。それで経済が成り立っています。
経済が成り立つと言うのは、人間が生きている、それが大事です。
芸術というのも、それを売って、人間が自分の命を支えている、そういう品物なんですね。
歌える人は歌う。みんなが美しく歌えるなら、それに金を払いません。しかし私たちはお金を払って美しい歌声を聴く。
自分にある能力を生かして、生きていかなければなりません。その点でみれば、芸術が完全に悪とは言えません。
たとえば、畜産業は動物を殺してしまいます。殺生は罪ですから悪行になります。しかし私たちは肉や魚を食べて生活しなければならないでしょう。私たちはスーパーで買ってしまいます。それで畜産業の人々にお金が入ります。
だからと言って動物を殺していいかと言うとそれは違います。畜産業の人はその仕事で家族を養っているけれど、同時に悪いことをする羽目にもなってしまいます。
最近ニュースで見たんですけど、あるところでたくさんの犬が捨てられている、と。これはブリーダーたちが捨てていました。それで私は思い出したんですけど、お釈迦様は動物の売買はやめてくださいと、「仏教徒には」、禁止しています。
お釈迦様が何か仕事をやめてくださいといったら、それは金にならない、という意味なんです。生計はなりたたないんだ、と。麻薬、酒、動物の売買はやめなさい、と。
私は、ブリーダーたちは一匹何十万で動物を売買しているから儲かるでしょうとおもっていました。
しかし違うみたいですよ。ブリーダーだから、それなりに動物に対して愛着がある。動物が子供のときに売れなかったら、費用がかかるばっかりだから、それで捨てちゃったんですね。自分の手では動物たちを殺せないんですね。
やっぱり、そういう商売と言うのは金にならないな、とかね。お釈迦様に言われた仕事をやれば、損はしません。
芸術の場合は、お釈迦様は「芸術をやるなかれ」とは言ってないんですが、かなり注意はしています。
ただ単に、欲怒り憎しみなどの感情だけを引き起こしてしまうと、これは危険です。何か人間に役に立つようにしてほしい。
私はこの間、ある子供向けの英語の本を読みました。
大人にとってはくだらないテーマなんですが、見事に子供目線で書いてありました。たとえば、子供が知らないような難しい単語が書いてある。その注意書きに「あなたは子供だからたぶんこの単語の意味が分からないでしょう。この単語の意味はこういうことです。ただカッコつけたかったら使いました」と。そうすると、子供はその単語を一発で覚えちゃうでしょ。
また、時々フランス語の単語も入ってくる。それにも、「これは『派手』と言う意味ですが、カッコつけちゃってフランス語を使っただけ。私は知っているから使っただけ」と。
そういわれちゃうと子供の世界でしょう。「カッコつけましたよ」というのは。そうすると、なんのことなくその単語を覚えてしまいます。
だから、あの本を書いた人は、子供の単語力や読む力を上げるために、くだらない本を読んだというだけで終わらせずに、知らない間に立派な英語を覚えてしまうと言うカラクリを作ったんです。
第一のタイトルは無いんです。シークレット。「秘密だから言うわけないでしょ」と。「あなたは本のタイトルが知りたくて手に取ったでしょ? 教えませんから、本を捨てなさい」と。「秘密っていうのは人に言うもんじゃない。言うはずがない」と。
タイトルはシークレットで、「この本を読んではいけません」と始まります。「読むな」というと子供は読むんですよ。
第一章が終わると、「あなたはとんでもない子だ。これから責任持ちませんよ」と、いうふうに第二章へ行きます。
あの本は小説ですが、本人がすごく気持ちよく書いたと思います。私は読んですごく楽しかった。いい作家だなぁと。
読み終わったら、ガクーンと「なんだこりゃ」と言う気分にさせるんです。最後まで人の興味を引き立てて引き立てて、結論には何もないんです。ガクーンと失望させます(笑)ものの見事に。それに文句は言えない。初めから作者は予告していました。
しかし大人の文学から見ると、それが立派な結論なんです。
子供たちから見れば「あれなんだこれは。がっかりしました」と言うことになるでしょう。でも初めから注意していたんだから。
だから芸術と言うのは、使い方によって人の役に立ちます。普通に言っても聞いてくれないことを歌にする。歌と言う手段がよろしい場合もあるし。
たとえば、殺すことが残酷だということをドラマにして伝えると、口で言うよりインパクトが強いです。
ですから、動物売買するなよと同じように、芸術活動するなというんじゃないんです。
芸術活動は、人間のコミュニケーション手段です。ですから誤ってはいけません。
自分が書いたものを人が読む。だから責任重大です。
人が本を読もうとする場合は、感情をかき回されなければ読みませんが、私が読む場合は、感情の部分は飛ばして読みます。どんなメッセージを言おうとしているのか、そのために作者はどういうデータを調べたのか、というところをみます。小説は嘘ですが、データが無ければね。嘘なんですけど本当のように書かなければ。読者をだますためには本物のデータを入れなければ。
一部の作家は、データを得るために人を雇っていろいろな書籍から調べてもらいます。本物のデータをね。それを入れて、入れて、それから自分のインチキストーリーを書いていきます。それで読む人が何かしら勉強になったということはあります。
小説から、文学的な文章を書く能力を養ったり。何かしら人の役に立つこと。社会が良くなるための。
簡単に言えば、要するに、慈しみが必要です。
歌にもドラマにも小説にも、慈しみが必要です。慈しみがずっと流れる作品は残ります。ただ単に恋の物語なら、すぐ捨てられてしまいます。
ノーベル賞を取っている作品は、世界に向けて人類に向けてすごいメッセージがあります。
2006年にノーベル文学賞を受賞した、オルハン・パムクさんはトルコ人でね、その人の本を全部読んでみました。ビックリしました。イスラム世界をずっと書いていますけど、やっぱり人間論を書いています。ずっと研究をしていて、イスラム人も怒らないようにイスラム批判をしていたり、ものの見事だなと思いました。
そういうことで、人類にとって役に立つ作品というのは残りますので、頑張ってください。
法話と実践会 2014,11,23 http://www.ustream.tv/recorded/55726413
動画上で01:27:00~終了までメモしました。